ダビデ神社・・・。読もうと思えば読めないこともない。
兵庫県赤穂市坂越にある大避(おおさけ)神社は、ダビデ王を祀っているのではないかという説があります。
ダビデ王と古代イスラエル王国
ダビデ王は、紀元前1000年頃に建国された古代イスラエル王国の礎を築いた王です。周辺国を次々と戦いで破って勢力を拡大していたダビデは、古代イスラエル王国を構成していた12部族の一つであるユダ族の王となります。さらに、古代イスラエル王国の前王の子との戦いにも勝利し、全イスラエルを支配し、古代イスラエル王国の王となります。その跡を継いだのが、ダビデ王の子のソロモン王です。古代イスラエル王国の領土をさらに広げ、都にエルサレム宮殿を建設するなど、栄華を誇ったソロモン王には、「ソロモンの秘宝」と呼ばれる旧約聖書にまつわる伝説が数多く存在しています。しかし、ソロモン王の死後、古代イスラエル王国は分裂し、紀元前722年には、北イスラエル王国がアッシリア帝国に滅ぼされ、その後、南イスラエル王国も滅亡します。古代イスラエル王国を構成していた12部族のうち、10部族は行方がわからなくなり、シルクロードを転々とし、東方へ逃れたのではないかという説があります。
大避神社とダビデ王
大避神社の「避」という字は、もともと「闢」という文字だったという説があり、「大闢」は、漢語でダビデを表します。つまり、「大避=大闢=ダビデ」というわけなのです。ちょっと無理があるような気がしますが、それだけではありません。大避神社の縁起によると、大避神社の祭神は、大避大明神で、この地で亡くなった秦河勝を、地元の人々が祀ったのが、神社の創建であるとしています。この秦河勝の秦氏が、大避神社とダビデ王を結ぶのではないかとされているのです。
謎の渡来系氏族、秦氏
秦河勝は、聖徳太子の側近として仕えた人物です。聖徳太子の死後、蘇我入鹿の追撃を避けて坂越に逃れた秦河勝は、千種川の開拓を進めたのち、647年に没し、坂越湾に浮かぶ生島に葬られました。坂越湾に浮かぶ生島には、秦河勝の墳墓があると伝えられています。赤穂を開拓した大避大神を祀る神社は、旧赤穂郡に28以上もあったそうです。
秦の河勝の墳墓があるとされる生島
日本書紀には、秦氏の祖として、応神14年に渡来した弓月君(ゆづきのきみ)が記されています。弓月君は、百済から自国の120県の民を率いて渡来し、土木・機織・養蚕などの技術力を発揮して、大きな経済力をたくわえ、一大勢力を築いていきます。弓月君の孫の秦酒公(はたのさけのきみ)は、雄略天皇のもとで活躍し、京都の太秦付近を本拠地としました。聖徳太子の側近として仕えた秦河勝は、聖徳太子所有の仏像を安置するために、太秦に広隆寺を建立します。広隆寺は秦氏の氏寺で、土地神を祀る大酒神社には、始皇帝、弓月王、秦酒公が祀られています。
広隆寺と大酒神社
大酒神社の由緒には、仲哀天皇8年(356年)に秦の始皇帝の14世孫の功満王が、戦乱を避けて来朝したために「大辟」と称し、秦酒公を祀るようになって「酒」の字を当てたことが記されています。そういえば、坂越の大避神社も秦河勝が蘇我入鹿の追撃を避けるために坂越に逃れたために「大避」という称するようになったという説もあり、大酒神社の伝承と重なるところがあります。時代を隔てた同じ所以には、何ゆえにこじつけ感が漂っています。
話が少々それてしまいましたが、秦氏は、高い技術力を用いて桂川の治水工事を進め、京都盆地北西部を開拓していきました。後に1000年の都と呼ばれるようになる京都は秦氏によって開かれたのです。桓武天皇は、平城京から長岡京、平安京と遷都を繰り返しますが、長岡京、平安京の造営に深くかかわったのも秦氏です。長岡京の造営長官の藤原種継の母は秦氏出身で、平城京の仏教勢力から距離を置きたかった桓武天皇は、秦氏の勢力と財力に頼ったともいわれています。平安京の内裏は、かつて秦河勝の邸宅があった場所という説もあります。秦氏は、新しい都である平安京建設のために一族の土地を献上したのです。
ダビデ王は、古代イスラエル王国の都をエルサレムと定めます。ヘブライ語で、エルサレムは「イール・シャローム」と発音するそうで、イールは都、シャロームは平安を意味するそうです。エルサレムを訳すると平安京になります。さらに、平安時代に始まったとされる祇園祭は、7月17日の山鉾巡行で祭のピークを迎えますが、イスラエルでは、ノアの箱舟が大洪水を乗り切ってアララト山にたどり着いたことを祝うシオン祭という祭があります。祇園とシオンの音が似ているうえに、ノアの箱舟がアララト山にたどり着いた日が、7月17日なのです。祇園祭りの山鉾には船鉾という船の形をしたものがあり、飾られているタペストリーには、旧約聖書の場面が描かれていたり、ラクダやピラミッドが描かれていたりします。
大避神社にまつわる12の数字が表すもの
大避神社の山門から拝殿へ上る階段は12段。境内にある井戸は12本の石柱で囲まれています。秦河勝が12人の従者とともにこの地に漂着したのが9月12日。その例祭で生島への海上御渡に使われる船も12隻。神社を守る社家も12家だそうです。12という数字に何か意味があるような気がします。そうです。ダビデ王が王として治めていた古代イスラエル王国は12の部族から構成されていたのです。
まとめ
これらのことから、秦氏は、紀元前722年に、祖国を追われて東方へ逃れた古代イスラエル王国の10部族の末裔なのではないかといわれているのです。秦氏一族の族長として厩戸皇子(聖徳太子)に仕え、物部守屋の首を切ったと伝えられる秦河勝は、皇子の私的軍隊を率いていたともいわれています。聖徳太子の死後、飛鳥から坂越に逃れてきた秦河勝は、千種川流域を開拓し、この地域の開拓神の大避大神として祀られました。一族の長として戦にも施政にも優れていた秦河勝を、一族の祖先である古代イスラエルのダビデ王になぞらえて祀ったとしたら・・・。
江戸時代になると、坂越は、赤穂塩を運ぶ北前船が行き来する港として栄えます。
古代イスラエルとのつながりを考えながら、ぶらぶらしてみるのもいいかもしれません。
今も江戸時代の風情を残す坂越の街