【阿波古代史資料】阿波国司について(その3)

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徳島県史第一巻(1964年)に掲載されている古代編史料参考にしています。

佐伯長継(さえきながつぐ)

任官期間 弘仁4年正月7日(813年)~弘仁7年(816年)

佐伯長継は、「本朝通鑑」に、天長5年(828年)59歳で亡くなったことが記されています。

大同4年(809年)に嵯峨天皇の即位に伴い、従七位上から七階級昇進し、貴族として下限の従五位下に叙爵されました。このとき、40歳ですから、相当遅い叙爵と言えます。

大同5年(810年)に左兵衛佐、弘仁2年(811年)には、左近衛少将と、朝廷の警備を務めています。

佐伯氏は、大伴氏から分かれた氏族で、天孫降臨の際に瓊瓊杵尊に随行した天忍日命を祖神としています。大伴氏は、古代ヤマト政権で、朝廷の警護を担う氏族でした。

その後、弘仁4年(813年)正月7日に、従五位上となり、44歳で阿波国司に任命されています。しかし、「2月23日次官である阿波介當宗家主を遺し夷俘を教喩させた」とあるので、すぐに都に帰ったことがわかります。

夷俘いふ」とは、奈良時代から平安時代初期に、蝦夷征討により朝廷に服属した者たちのことです。「日本書紀」には、日本武尊が東国征伐で捕虜とした者たちを、初めは、伊勢神宮や大神神社に献じて住まわせましたが、何かと無礼を働くので、景行天皇の命で、播磨、讃岐、伊予、安芸、阿波の五国に住まわせたとあります。その後、集団で移住させられた者たちは佐伯部さえきべと呼ばれ、地方豪族である佐伯直さえきのあたい佐伯造さえきのみやっこが監督していました。のちに、中央豪族となった佐伯連さえきのむらじ佐伯宿祢さえきのすくねがその職務を司ることになりました。

佐伯長継も佐伯宿祢長継と呼ばれていましたから、おそらく、「夷俘いふ」が阿波国に住まわされたことにより、阿波国司の任を得たと思われます。

その後、弘仁6年(815年)に、左近衛少将兼内蔵頭に出世し、そのときも阿波守を兼ねています。弘仁7年(816年)まで、阿波守を務めています。

佐伯長継は、阿波守を退任した後も、中央で順調に昇任・昇進し、弘仁14年(823年)には、正四位下となり、嵯峨天皇が設置した蔵人所くろうどどころという天皇の秘書的役割を担う部署の長官につき、四か月後、嵯峨天皇の譲位により、蔵人頭を辞任しています。

嵯峨天皇の即位とともに7階級昇進し、天皇の首席秘書ともいえる蔵人頭を務め、譲位とともに辞任したということは、嵯峨天皇の信任が厚かったと言える。

亡くなる2年前の天長3年(826年)には、従三位となり、上級貴族である公卿となりました。

嵯峨天皇は、空海、橘逸勢とともに三筆の一人に数えられるほどの腕前でした。特に、空海とは師弟関係にあったといわれるほどの間柄でした。空海は、讃岐の佐伯氏の出身で、佐伯長継とは同族になります。

もしかすると、佐伯長継が讃岐の隣国の阿波国司になったのも空海の影響もあったのかもしれません。

菅原清公(すがわらのきよとも)

任官期間 弘仁7年(816年)~弘仁10年(819年)?

菅原清公は、有名な菅原道真すがわらのみちざねの祖父にあたります。

菅原清公の父は、天応元年(781年)従五位下遠江介を務めた菅原古人すがわらのふるひとです。もともと土師姓でしたが、従五位下に昇進したのを機に、居住地である大和国添上郡菅原邑から菅原姓へ改姓しています。

菅原古人の父は、土師宇庭はじのうにわといい、この人物も阿波守を務めたという記録もありますが、六国史には、土師宇庭の任官記録はなく、「日本後記」に土師宇庭の子の秋篠安人あきしののやすひとが、延暦21年(802年)に阿波守に任官した記録があるので、混同したものと思われます。

秋篠安人の甥が菅原清公ということになるので、菅原清公が阿波守に任官した弘仁7年(816年)には従三位参議にまで昇進していた秋篠安人の意向もあったのかもしれません。

菅原清公は、高名な学者であった父の菅原古人の血を引いたのか、若くして優秀で、延歴8年(789年)20歳で大学寮の学生である文章生となります。

その後も才覚を発揮し、延歴23年(804年)34歳の時に、遣唐判官として唐に渡り、皇帝に謁見しています。

そんな優秀な人物が阿波守をしていたとは!

その後も順調に昇進し、弘仁5年(814年)44歳で、朝廷の最高機関である太政官の右少弁、左小弁、式部少輔となり、弘仁7年(816年)46歳の時、従五位上となり、阿波守を兼任します。

弘仁11年(820年)に、次の阿波守が任官しているので、その年に阿波守の任を解かれたと思われます。

その後も中央の官職についていましたが、弘仁14年(823年)に嵯峨天皇が譲位すると、天長元年年(824年)54歳の時に、播磨国権守という地方官に左遷となります。

しかし、菅原清公ほどの人物を地方官にしておくのは惜しいと、公卿らの上奏により、天長2年(825年)には、文章博士として中央官職に復帰します。

その後、承和6年(839年)63歳の時に、従三位参議となり公卿に列せられ、承和9年(842年)に72歳の生涯を閉じています。

小野峯守(おのみねもり)

任官期間 弘仁11年正月11日(820年)~

小野峯守は、絶世の美女で女流歌人として有名な小野小町の曾祖父にあたります。

嵯峨天皇が皇太子になると、皇太子の住居である春宮の官職につきます。のちに嵯峨天皇が即位すると、7階級昇進し、従五位下に叙爵され、いきなり右少弁の要職に就きます。

佐伯長継と同じだ!

その後も、中央官職を務めながら、弘仁3年(812年)34歳の若さで美濃守となります。陸奥守を経て、弘仁11年(820年)42歳で、正五位下阿波守となっています。

文人としても才覚を発揮し、阿波守になる前の弘仁5年(814年)36歳の時に、勅撰漢詩集の「凌雲集」の編纂を当時44歳の菅原清公とともに行ってます。

菅原清公と小野峯守は、一緒に勅撰漢詩集を編纂し、その後ともに阿波守を務めている。偶然か?

弘仁13年(822年)44歳の時に、参議兼太宰大弐となり、九州の大宰府に赴任しています。大宰府でも多くの事績を積み上げ、天長5年(828年)50歳で、従四位上勘解由使長官兼刑部卿として都での官職に復帰するも、天長7年(830年)に53歳で病気のため亡くなっています。

藤原濱主(ふじわらのはまぬし)

任官期間 天長4年正月21日(827年)~天長8年(831年)?

藤原濱主は、藤原不比等の次男藤原房前を祖とする藤原北家という上流貴族の家系に生まれます。父は、嵯峨天皇のもとで朝廷の最高幹部である右大臣を務めた藤原園人ふじわらのそのひとという超エリートです。

藤原濱主は、弘仁元年(810年)25歳で、従五位下に叙爵されます。

佐伯長継は40歳で叙爵だから、上流貴族出身は出世が早い!

父の藤原園人は、死後、嵯峨天皇から左大臣正一位という最高の官位を贈りました。藤原園人の長男である藤原濱主もどんどん昇進・昇任し、30歳代で神祇官の長官である神祇伯を務めています。

その後、弘仁14年(823年)嵯峨天皇が譲位し、淳和天皇が即位すると、天長4年(827年)42歳で従四位上阿波守となります。

ここれは事実上の左遷では?

天長8年(831年)には次の阿波守が任官していますので、藤原濱主は4年間阿波守を務めたと思われます。

その後の仁明天皇の時代になっても中央の官職には復帰できず、承和12年(845年)61歳で亡くなっています。最後の官職も安芸守という地方官でした。

その3はここまで!

【阿波古代史資料】阿波国司について(その1)
歴代阿波国司についてまとめてみました。
【阿波古代史資料】阿波国司について(その2)
阿波国司について、その経歴などをまとめてみました。
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