【古代東アジアⅢ】漢・武帝、最大領土を築く!BC200年~BC108年

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前回は、秦滅亡後から漢の劉邦が中国を統一するまでのBC207年からBC202年までの出来事をまとめていました。

今回は、漢の第7代皇帝の武帝が宿敵匈奴を退け、周辺国も制圧し、最大領土を築くまでをまとめています。

BC200年:匈奴の冒頓(ぼくとつ)が漢初代皇帝高祖劉邦を退ける。(史記匈奴列伝)

※匈奴の王である冒頓は、秦の滅亡やその後の混乱で南から攻められることはないと、東西の強国を討ち、中国の北方に強大な帝国を築いていました。

※中国を統一した漢の高祖劉邦は、匈奴への対策として匈奴と国土を接する代に韓王信を派遣します。これを知った冒頓は、すぐさま代を攻め、韓王信を降伏させました。高祖劉邦は、自ら32万の兵を率いて討伐に赴きますが、冒頓の戦略にかかり白登山で冒頓の精鋭40万騎に包囲されます。

※高祖劉邦は、冒頓の皇后に間を取り持ってもらうよう密かに書を送ります。高祖劉邦は、辛くも包囲網を脱し、匈奴の冒頓に和睦を申し入れます。その条件は、高祖劉邦の一女を冒頓に差し出したうえに毎年匈奴に貢物をするという屈辱的なものでした。

これってほぼ属国扱い・・・。

BC139年:漢第7代皇帝武帝(在位BC141年-BC87年)が匈奴を挟撃するために大月氏に張騫(ちょうけん)を派遣する。※年号については諸説あり

※漢の第7代皇帝の武帝は、即位すると長年漢の脅威となっていた匈奴を討伐する方法を探ります。「匈奴によって滅ぼされた月氏が匈奴を恨んでいるがともに戦う国がいないといっている。」という情報を手にし、遥かに西にある大月氏へ同盟を結ぶための派遣を募ります。

大月氏とは?

※月氏は、もとは西トルキスタン(カスピ海の西辺り)の遊牧民と考えられています。秦の始皇帝が中国を統一した紀元前3世紀頃には、敦煌付近に本拠地をもち、西モンゴルまで勢力をのばし、東モンゴルの東胡ともに大きな勢力となっていました。月氏と東胡の間の小国であった匈奴は月氏に皇太子を人質に送っていたほどでした。しかし、匈奴の冒頓が王になると形勢は逆転し、匈奴は東の東胡を滅ぼし、西の月氏を本拠地の敦煌まで退けます。

※さらに、冒頓の子の老上単于に攻められ、月氏王は殺されて月氏は分裂します。月氏の大部分は西へと逃れますが、匈奴はさらに追撃し、最終的には、かつていた西トルキスタンの南部に逃げ、そこにあった大夏(たいか)を属国にし大月氏となります。一方、敦煌の南に逃げた少数は、その後も留まり小月氏と呼ばれました。

※武帝の大月氏への派遣に手を挙げたのが張騫(ちょうけん)でした。しかし、当時の漢には西域の情報は全くなく、しかも、大月氏に行くには、匈奴の領土を通過せねばなりません。武帝から約100人余りの従者を与えられた張騫は、とりあえず西へ向かって漢の勢力圏を出ますが、案の定、すぐに匈奴に捕らえられて、軍臣単于(ぐんしんぜんう)のもとで、10年余りにわたって拘留されました。

しかし、何の情報もないまま、敵の領土に入るなんて無謀だな・・・。

※その後、張騫は匈奴から脱出し、西方の大宛(だいおん)にたどり着きます。大宛の王は、漢との通商を願っていたので隣国の康居(こうきょ)まで送ってやります。康居も張騫を大月氏に送ってやり、張騫はようやく大月氏に辿り着きます。漢を出て10年が経っていました。

※張騫は大月氏の王にともに匈奴を討つように同盟を提案しますが、大月氏は、匈奴に西方に追いやられた後、この地の大夏を服属させ、シルクロードの中継貿易で大いに栄えており、匈奴への恨みももうなく、あえて戦うこともないと漢との同盟に興味を示しませんでした。

10年も経つと情勢も変化する・・・

※張騫は、帰る途中にも匈奴に捕らえられて拘留されます。しかし、匈奴の王が亡くなるなど国内の混乱に乗じて逃げ出し、漢へと戻ります。漢を出発してから13年が経っていました。大月氏との同盟は失敗に終わりましたが、張騫のもたらした西域の情報は、その後の漢の西域侵攻に大きく役立ちました。

BC128年:前漢第7代皇帝武帝元朔元年、東夷の濊(わい)の君主の南閭(なんりょ)が、漢の統治下に入りたいと言ってきたので、その地を支配するため滄海郡(そうかいぐん)を置いたが、3年で廃止した。(漢書)

※この頃、朝鮮の北部で、漢に攻められた燕から逃れた燕王の部下の満が衛氏朝鮮を建国していました。濊は、衛氏朝鮮の東または南東にあった小国で、衛氏朝鮮の属国でした。濊の君主の南閭は、衛氏朝鮮の支配から離れ、そのころ漢が衛氏朝鮮の北に於いていた遼東郡の太守に申し出てきました。

BC121年:前漢第7代皇帝武帝(在位BC141年-BC87年)が匈奴を攻撃、匈奴は大敗を喫し重要拠点である河西回廊(現甘粛省)を奪い、西域進出の拠点敦煌郡を設置。

BC119年:前漢第7代皇帝武帝(在位BC141年-BC87年)が再び匈奴を攻撃、匈奴は漠南(現内モンゴル自治州)まで奪われる。これにより、匈奴と前漢の形勢は逆転し、匈奴は前漢から人質を要求されるようになる。

※漢の武帝の匈奴戦において、大活躍したのが将軍衛青(えいせい)とその甥の霍去病(かくきょへい)でした。BC119年、衛青(えいせい)と霍去病(かくきょへい)は、それぞれ5万騎を率いて匈奴の本拠地を攻撃し、匈奴の王を包囲・敗走させ、匈奴を北方に封じ込めることに成功した。

衛青とは?

☆衛青は、匈奴と国境を接する平陽(へいよう)の低い身分の出身でした。「貴人の相がある。将来は出世するよ。」といわれた衛青は「人に奴隷扱いされている身、一生鞭で打たれず、ののしられずにすめばそれでいい。」と答えたと言います。しかし、姉の衛子夫が武帝にみそめられ宮殿へ入ると、騎士として秀でていた衛青も武帝に引き立てられました。BC129年に将軍となり、他の将軍3人とともに1万騎を率いて匈奴征伐に出陣します。他の将軍が大敗するなか、幼い頃に匈奴国境で過ごし、匈奴をよく知っていた衛青は、匈奴を討ち敵数百人を捕虜とします。その後も匈奴に連戦連勝し、ついにBC121年、匈奴の領土であった河西回廊(敦煌の南東)を奪い、その功績で衛青ついに大将軍となりました。

BC112年:前漢第7第皇帝武帝が、漢の南方の南越を滅ぼす。(史記南越列伝)

BC108年:前漢第7代皇帝武帝(在位BC141年-BC87年)が衛氏朝鮮を滅ぼし、漢の領土として朝鮮半島北部に楽浪郡、真番郡、臨屯郡、玄菟郡を置いた。

※衛氏朝鮮の王の衛満は、遼東郡の太守に、漢武帝の臣下に入ることを約束していました。しかし、一方で漢の威を借りて周辺国を制圧し、第3代の衛右渠(えいうきょ)の時代になると、朝貢しないどころか、漢へ周辺国が朝貢するのを妨害するようになりました。これに怒った漢武帝は、BC109年に征討軍を派遣します。衛右渠も侵攻してきた漢軍を撃破するなど激しく抵抗しますが、自らの家臣に殺害されてしまいます。その後、衛氏朝鮮の支配地域に四郡を置き、漢の領土としました。

前漢第7代皇帝の武帝の時代に、最大の敵であった匈奴を北へ退け、南の南越、東の衛氏朝鮮を滅ぼして漢の領土とし、さらに西へは敦煌を拠点にして勢力範囲を拡大し、最大領土となります。

☆世界文学大系「史記」小竹文夫・小竹武夫訳 筑摩書房

☆「史記口訳」吉田武夫著 宝文館

☆「西域」井上靖・岩村忍 著筑摩書房 

を参考にしています。

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