【古代東アジアⅠ】中国を統一した秦・漢よりも大きな大帝国が存在した!

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今回は、秦の始皇帝の中国統一から秦の滅亡までをまとめています。

BC247年:秦の荘襄王の子、趙政が13才で秦王となる。(史記)

BC230年:秦が隣国の韓へ侵攻し首都新鄭(しんてい)を陥落させる。

BC228年:秦が趙の首都邯鄲(かくと)を陥落させ、趙は滅びる。

BC225年:秦が魏の大梁を水攻めして陥落させる。魏は秦に降伏し滅びる。

BC223年:秦が楚を攻める。楚の将軍項燕が奮闘するも戦死、楚が滅びる。

BC222年:秦が燕の首都薊(けい)※現在の北京※を陥落させ、燕が滅びる。

BC221年:秦が斉を滅ぼして、中国を統一する。秦王趙政(ちょうせい)は、始皇帝と名乗る。(史記)

BC215年:秦の始皇帝、将軍の蒙恬(もうてん)に匈奴を討伐させて北に追いやり、北方騎馬民族の侵入を防ぐために、万里の長城を建設する。(史記)

BC210年:秦の始皇帝が崩御する。(史記)

BC209年:秦の北方の匈奴(きょうど)の冒頓(ぼくとつ)がクーデターにより父を殺害し王となる。(史記匈奴列伝)

※冒頓(ぼくとつ)は、匈奴の皇太子でした。しかし、王である父の頭曼(とうまん)は、可愛がっていた若い妃に子が生まれると、冒頓ではなくその子に跡を継がせたいと考えるようになりました。

 いやいや、これよくある話・・・若い妃にそそのかされたか?

※冒頓は、頭曼により、隣国の月氏へ人質として送り出されます。それだけでなく、頭曼は、人質である冒頓が殺されることを承知で突如月氏に攻め込みます。当然のことながら、月氏は冒頓を殺そうとしましたが、冒頓は、隙を見て馬を盗んで脱出に成功します。頭曼は、冒頓の勇猛さを讃え、一万騎の将に任命します。

 これ、頭曼は、手放しで喜べなかっただろうな。勇猛さを讃えたというより、むしろ、機嫌とり・・・。

※冒頓は、兵に「自分が矢を射った方向に矢を射よ」と命じ、自らの良馬を射ったり、愛妻を射ったりという狂気を演じ、躊躇する兵はすべて切り殺しました。こうして、親衛隊を組織した冒頓は、父・頭曼を矢で射殺するというクーデターを起こし、継母である若い妃や異母兄弟をすべて殺害し、自らが匈奴の王となりました。

 自らの意思に従うかどうかを試すどころじゃない。一択しかない状況をつくるのがすごい。

※冒頓が王になると、当時、勢力の強かった東隣の大国の東胡の王が、「お父さんの持っていた一日に千里走る馬がほしいなあ。」と貢物を要求してきました。「千里走る馬は匈奴の宝だ」と反対する群臣に「たかが馬一匹で隣国のご機嫌を損ねないほうがよい。」と馬を差し出しました。東胡の威勢を恐れていると思った東胡の王は、「冒頓の愛妻の一人をもらい受けたいなあ。」と要求してきました。冒頓は、今度も反対する群臣に「ただ一人の女子のために隣国のご機嫌を損ねない方がよい。」と自分の愛妻の一人を差し出しました。東胡の王は、冒頓は何でも言うことを聞くと調子に乗って、今度は「匈奴と東胡の間のだれも住んでいない土地を東胡の所有にしたいんだけどいいかな?」と言ってきました。群臣たちが相談の末、「誰も住んでいないし、価値のない棄て地なので、あげてもあげなくてもどっちでもよいのでは・・・。」と報告すると、「土地は国家の基だ!土地がなくては国家は成り立たたぬ!与えることは絶対に出来ない。」と激怒し、「東胡にあげてもいいんじゃない。」と意見を出した群臣を切り捨てました。そして、「今すぐ自分に従って東胡を攻めよ。遅れる者は切り殺す。」と国中に命令しました。冒頓を甘く見ていた東胡は一気に攻め込んできた匈奴軍に為すすべなく敗れ、東胡の王は殺され、東胡は滅びました。

 家臣も敵も油断させておいて勝負所で一気に落とす・・・さすが北狄の将ながら中国の正史「史記」の列伝に名を連ねる武将だけのことはある。

※東胡を滅ぼした冒頓は、西隣の月氏にも侵攻し西域へ追いやっています。また、南の楼煩・白羊にも侵攻し、かつて秦の将軍蒙恬に奪われた土地を奪還し、モンゴルに大帝国を築きました。

 匈奴の冒頓は、BC210年に始皇帝が崩御し、秦の国内が反乱で荒れたことに乗じて、周辺地域に一揆に攻め入り、モンゴルに大帝国を築いた。東の東胡や西の月氏に軍を傾注しても、秦には匈奴に攻め込む余裕はないという情報を得ていたのだろう。

BC209年:一兵士であった陳渉(ちんしょう)が秦に対して反乱を起こす。(史記)

BC208年:陳渉が秦の将軍章邯(しょうかん)との会戦中に家臣の裏切りに合い殺される。(史記)

※地方を守る兵士で屯兵の長であった陳渉は、大雨により、期日までに駐屯地へ行くことができなくなりました。秦の法律では、駐屯地への任務で遅れたものは死刑になりました。行かなくても死刑、行っても死刑という状況に、仲間の呉広とともに反乱を起こすことを決意します。

 どうせ死ぬならひと暴れしてから・・・。

※陳渉はある策略を練ります。呉広は、始皇帝の嫡子扶蘇(ふそ)、陳渉は、楚の大将軍項燕(こうえん)だと偽って他の兵士たちを反乱に巻き込もうとしたのです。扶蘇は、始皇帝の嫡子で仁愛で賢明な人物として人気がありましたが、二代皇帝となる胡亥(こがい)と宦官の趙高の謀略によって自決させられた人物です。また、項燕は、秦が滅ぼした楚の将軍で、武功と人柄から人心を得ていた人物でした。陳渉は、兵士や民衆に秦に対する失望と恨みを抱かせ、楚の復興と称して扇動し、反乱を成功させます。反乱は次第に大きくなり、秦の城の一つである陳城を攻略し拠点とします。さらに、陳渉自ら楚王を名乗り、秦に滅ぼされた楚の復活をアピールします。陳渉が楚王を名乗ったことで、各地で秦に滅ぼされた国々の子孫を担ぎ上げて反乱が起こります。こうして、中国を初めて統一した秦は統一後わずか15年で滅びることになるのです。

BC208年:秦に滅ぼされた楚の大将軍・項燕(こうえん)の子の項梁(こうりょう)が陳渉の死後、楚王の子孫の心を楚王に立て反乱軍を率いる。(史記)

※項梁は、陳渉が自ら楚王を名乗り失敗したため、自らは君主とならず、楚の懐王の孫で、楚の滅亡後は羊飼いとなっていた心を探し出し、祖父と同じ名の懐王として楚王に立てます。項梁の子が、「項羽と劉邦」で有名な後の将軍項羽です。

BC206年:首都咸陽に攻め入った劉邦(りゅうほう)により秦は滅亡する。(史記)

※沛県という地方の町で役人をしていた劉邦でしたが、始皇帝の陵をつくるための人夫を現場に送り届ける仕事の途中、苦役を逃れようと多くの人夫が逃げ出してしまいます。秦の法律では、逃げた人夫も逃がしてしまった役人も死刑となっていたため、劉邦は逃げた人夫を追うことはせず、自分も職務を放り出して逃げ出してしまいます。ところが、酒豪で面倒見の良い劉邦を慕って多くの人夫が劉邦と行動を共にするようになります。

 ともに秦を倒した武将だけど、項羽はエリートで、劉邦は叩き上げなんだな・・・。

※その後、沛県の長官が、秦の反乱軍を組織しようと部下の進言で劉邦を呼び寄せたときには、劉邦の兵は数百人にもなっていました。結局、秦の報復を恐れた沛県の長官は、部下を追い出しますが、部下が頼ったのは劉邦でした。沛県の長官を討った劉邦は、沛県の将に推薦され、沛公と称するようになります。

 まわりがほっとかない・・・よほど魅力がある人物だったんだな。

※劉邦は、項梁の指揮下に入り、5000人の兵を任されました。劉邦は、項羽とともに、秦軍を次々と撃破していきます。これに慢心した項梁は、群臣の諫めも聞かず、増軍した秦の将軍章邯(しょうかん)に夜襲をかけられ戦死していしまいます。

※反乱軍の将を二人も倒し、まさに孤軍奮闘の秦の将軍章邯(しょうかん)でしたが、項羽と対峙したときに劣勢になり、宮中へ使いを出したところ、宮中の実権を握っているのが宦官の趙高であることを知らされ、項羽の説得を受けてついに降伏します。

※最大の難敵であった章邯と盟約をむすんだ項羽は、次々と秦軍を破り、各地を平定してついに首都咸陽に入ろうとします。しかし、すでに、首都咸陽は、劉邦が攻略した後で、劉邦の兵に阻まれ咸陽に入れず、項羽は激怒しました。実は、最後の攻防戦を前に、懐王が「関中(函谷関の中で咸陽を指す)に一番先に入ったものを関中の王とする。」と明言していました。しかも、懐王は、「気性の荒い項羽を先に咸陽に入らせては何をするかわからない。」との進言を受け、劉邦には西から直接咸陽に向かわせ、項羽には北の趙を牽制してから咸陽に向かわせるように命じていたのです。

 これは項羽が激怒するのも無理はない・・・。せっかく、協力して秦を倒したのに、何か起こりそう・・・。

今回はここまでです。次回をお楽しみに!

☆世界文学大系「史記」小竹文夫・小竹武夫訳 筑摩書房

☆「史記口訳」吉田武夫著 宝文館 

を参考にしています。


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