【古代東アジアⅡ】両雄激突!項羽と劉邦 楚漢戦争

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前回は、秦の中国統一から滅亡までの出来事でした。

今回は、項羽と劉邦の楚漢戦争が中心になります。

BC207年:項羽と劉邦が咸陽郊外の鴻門(こうもん)で会見する。【鴻門の会】

※秦の首都咸陽を落城させ、事実上秦を滅ぼした劉邦は、函谷関の関の守りを固めます。項羽が、秦の主力軍と戦い秦の将軍章邯(しょうかん)を降伏させ、函谷関に着いた時には、すでに劉邦の兵が守っており、首都咸陽へ入ることはできず、項羽は激怒します。

※さらに、劉邦の家臣の曹無傷(そうむしょう)が、項羽に遣いを送り、「劉邦は、間中の王となろうとして、秦の三代皇帝であった子嬰(しえい)を宰相として、秦の宝をすべて奪ってしまった。」と讒言します。

※項羽は、咸陽郊外の鴻門に陣をはって、40万の軍勢をもって劉邦を攻める準備を進めます。一方咸陽の劉邦の軍勢は10万。ただでさえ連戦連勝の項羽の軍勢を前に、勝負は明らかでした。

そりゃ曹無傷も裏切ったのも無理はない・・・。

※項羽の叔父の項伯は、劉邦についていた旧友の張良(ちょうりょう)を助けようと、密かに張良に会い「項羽が劉邦を攻めようとしているので一緒に逃げよう。」と誘います。しかし、張良は「そんな不義理はできない。」と劉邦軍にとどまり、劉邦に項羽軍が攻めてくることを伝えます。

良とは?

☆張良は、秦に滅ぼされた韓の大臣の子で、祖国を奪った秦の始皇帝に復讐するために、私財をなげうって兵士を集めました。始皇帝の諸国巡幸中に、暗殺を企てるも失敗します。始皇帝の死後に起きた反乱で、秦軍と戦っていた劉邦と出会います。張良が劉邦に自らの兵法を語ったところ、今まで誰も相手にしてくれなかったのに、劉邦は張良の兵法を実践で取り入れ次々と功を上げていきました。「劉邦は天授の英傑である。」と張良は劉邦の軍師となり、劉邦と行動をともにします。その後、数々の場面で劉邦に助言し、劉邦の中国統一に大きく貢献しました。漢の三傑と呼ばれています。〈史記留候世家第二十五〉

※劉邦は、項伯に相談し、「函谷関の守りを固めたのは盗賊と非常事態に備えるためで、日夜項羽将軍が到着するのを待っていた、決して背くつもりなどないことを項羽に伝えてほしい。」と頼みます。項伯は劉邦に、「自ら項羽のところに出向いて謝罪した方がよい。」とアドバイスし、陣に帰って項羽にそのことを伝えます。

※項羽は、項伯の話を承諾し、鴻門で項羽と劉邦の会見が実現します。しかし、劉邦の才覚を見抜いていた楚の参謀の范増(はんぞう)は、「会見の酒宴の席で、機を見て劉邦を切り殺しましょう。」と項羽に進言します。

劉邦は、後に中国を統一し、漢の初代皇帝となる人物・・・范増の目は確かだった!

※しかし、当の項羽はというと、ひたすら謝罪を繰り返す劉邦にその気は失せてしまいます。しびれをきらした范増は、酒宴を中座し、項羽の従弟の項荘を呼び、「余興で剣舞を披露し、その剣で劉邦を切れ。」と命じます。気配を察した項羽の叔父の項伯は、ともに剣舞を舞い、項荘にその機会を与えませんでした。

項伯の大ファインプレーだ!

※劉邦とともに項羽の陣に入っていた張良は、陣外で待機していた漢の武将の樊噲(はんかい)に、ただならぬ状況を伝えると、樊噲は、剣と楯をもって陣内になだれ込み項羽を睨みつけます。剣に手をかけ立ち上がった項羽ですが、勇猛果敢で豪快な樊噲を気に入った項羽は、樊噲に酒や肉を振舞います。樊噲はそれらを立ったまま一気に飲み干し、劉邦に謀反の気などかけらもないことを伝え、「小心者の讒言を聞き、功のある者を殺そうとするとは滅亡した秦の王と同じではないか。」と非難します。項羽は何も返答できず、「まあ座れ。」と樊噲と張良を座らせました。

樊噲の主君を救うための命がけの行動もすごいが、それを受け入れた項羽も器の大きな人物・・・戦国時代の織田信長のみたいだ。しかし、この豪快さが後々命取りとなる。

※劉邦は、便所にいくと言って席を立ち、あとのことは張良にまかせて自軍へと逃げ帰ります。劉邦を討つ最大のチャンスを逃した楚の参謀の范増は「項羽の天下を奪うものは必ず劉邦だ。我が一族は必ず劉邦の捕虜をなるだろう。」と悔しがりました。

BC206年:項羽が秦滅亡の論功行賞を行い、諸将を各地の王に封建し、自らは西楚の覇王を名乗る。劉邦には、西方の巴と蜀を与えて漢王とした。

※項羽は、劉邦に代わって秦の首都咸陽に入ると、第三代皇帝の子嬰を殺し、宮殿をすべて焼き払って財宝を奪いました。その後、秦との戦いで功績のあった武将に土地を与え王とし、自らは西楚の覇王と称し、封建制をしきました。楚王であった懐王は義帝とされましたが、後に項羽によって誅殺されます。首都咸陽を陥落させるなど、最も功績のあった劉邦は、西方の僻地の巴(は)と蜀(しょく)の土地を与えられ漢王となりました。項羽が劉邦を西方の僻地へ追いやったことは、西方が地図上で左になることから「左遷」の語源となったと言われています。ともかく、項羽の行った論功行賞は、不公平なもので、その後各地で争いの火種を産むことになります。

約束を反故にされ、僻地へとばされる形となった劉邦が黙っているはずがない・・・。

BC206年:漢王劉邦は、関中を手にいれるために漢のすぐ北の雍(よう)へ進軍する。(史記)

BC205年:漢王劉邦が雍(よう)に続いて、塞(さい)、翟(てき)へと進軍し降伏させる。(史記)

※雍・塞・翟は、かつての秦の中心部で間中とよばれていた地域でした。かつて楚王の懐王は、「一番に関中に入ったものを関中の王にする。」と約束していました。しかし、劉邦は、秦の首都咸陽へ一番に攻め入り陥落させたにもかかわらず、実権を手中にした項羽により西方の僻地へと追いやられていました。

※斉の王族の子孫の田栄(でんえい)は、項羽に嫌われていたため、斉の王にはしてもらえませんでした。それに不満をいだいた田栄は、勝手に斉に攻め込み斉王となり、その後も周辺国を襲い、領土を広げていきました。斉は、項羽の西楚のすぐ北に位置していたため、怒った項羽は田栄討伐に向かいます。

※劉邦は、将軍である韓信の進言を受け、項羽が斉に気を取られている間に、かつての秦の中心地である関中に進軍します。関中は、雍・塞・翟の3つに分割され、かつての秦の将軍が王となっていました。特に漢のすぐ北の雍(よう)は秦への反乱軍を次々と破っていった大将軍章邯(しょうかん)を王とし、劉邦を監視させ封じ込めていました。章邯は、劉邦の侵攻後も籠城し抵抗を続けますが、最後は漢の武将韓信に攻められ自害しています。

韓信とは?

☆韓信は貧しい庶民の出身で、項梁の軍勢に加わっていました。項梁の死後は項羽に仕えましたが冷遇され、その後は、劉邦の軍に加わります。しかし、そこでも下級の兵士でした。ある罪に連座して斬首の刑になり、まさに首をはねられようというときに「王は天下の大業を成すことを望まれないのか。なぜ壮士を切るのだ。」と叫んだところ、漢の将軍の夏侯嬰(かこうえい)に「面白いやつがいる。」と助命され、劉邦と会うことになります。劉邦はさほど興味をいだきませんでしたが、宰相の蕭何(しょうえい)に気に入られます。BC206年に劉邦が僻地に左遷されたときに、韓信は行くのが嫌で逃げ出します。蕭何は後を追いかけ何とか連れ戻します。劉邦が「他の武将が逃げても後を追わなかったのに韓信だけなぜ追いかけた。」と問うと、蕭何は「王が僻地の王で満足するなら韓信は必要ないが、天下を項羽から奪うつもりなら韓信をおいて他にそれができる人物はいない。」と答えました。劉邦は進言を聞き入れ韓信を大将に大抜擢します。その後の韓信の活躍はすさまじいもので、北方の魏・趙・燕・斉を降伏させ、劉邦の漢・西楚の項羽と肩を並べるまでの勢力になります。劉邦の中国統一にも大きく貢献し、漢の三傑の一人に数えられています。〈淮陰候列伝第三十二〉

BC205年:劉邦が西楚領の彭城(ほうじょう)へ進軍し項羽の楚軍と戦う。【彭城の戦い】

※雍・塞・翟に次いで、韓に侵攻した劉邦は、項羽が封じていた韓王を廃し新たに王を立てます。さらに、魏にも侵攻し魏王を降伏させます。こうして東へと勢力を拡大していった漢王劉邦は、項羽が主君の義帝を殺したことを大逆無道であるとし、義帝の弔いと称して項羽を討つことを宣言します。趙や燕もこれに賛同し、劉邦は、漢・韓・魏・趙・燕の連合軍を組織し、56万の連合軍で西楚の彭城を占領しました。

ついに劉邦と項羽の直接対決だ!

※これに激怒した項羽は、斉との交戦を諸侯に任せて、自らは精鋭3万を率いて彭城へ攻め入ります。大軍で攻めこみ気の緩んでいた連合軍は、彭城で毎日のように酒宴を開いて騒いでいました。夜明けとともに攻め入った項羽軍は、彭城を奪還することに成功し、さらに敗走する連合軍を追撃しました。連合軍は壊滅し、兵士の死体が川の流れをせき止めたほどだったといいます。

56万の軍勢に対してたった3万で攻め込むとは・・・。

BC204年:劉邦は、彭城(ほうじょう)の南の滎陽(けいよう)まで逃げ籠城するが、項羽に追撃を受ける。【滎陽の戦い】

※劉邦は、彭城攻略でも功のあった陳平を滎陽で副将に任命します。これに反発した武将は陳平の魏や西楚での悪行を劉邦に報告し、陳平の解任を進言します。悩んだ劉邦が陳平を推薦した魏無知に「なぜ、陳平を推薦したのか?」と尋ねると、魏無知は「私は陳平の行いを推薦したのではなく奇策の士としての能力を推薦したのです。その謀り事が真に国家に貢献するかのみを考えるべきです。」と言いました。

陳平とは?

※陳平は、貧しい農民の生まれでしたが、働きもせず書ばかり読んでいました。陳平の兄の伯は、そんな弟を大事にし、好き勝手にさせていました。陳平は、ある家の金持ちの娘に目を付け、その祖母である老婦人に気に入られようと、村に葬式があったときに、誰よりも早く来て準備し、誰よりも遅くまで世話をしました。その作戦が成功し、孫娘を嫁にもらいます。その後、秦に対する反乱が起こると、村の若者たちを引き連れて魏の王に仕え、反乱軍に加わります。しかし、魏王に度々軍略を説くも全く聞き入れらず、讒言により逃亡します。その後、西楚王項羽に仕えますが、作戦の失敗により項羽の怒りをかってまたもや逃亡し、漢王劉邦の基に身を寄せていた魏無知を頼ります。魏無知の推薦を受けて劉邦に仕えるようになりました。その後は数々の奇策でもって劉邦を救って漢の中国統一に貢献し、ついには漢の宰相となり代々の皇帝の側近として仕えています。〈史記陳丞相世家第二十六〉

※滎陽を項羽軍に包囲された劉邦は、項羽に和睦を申し入れますが断られます。項羽は和睦を受け入れることも考えていましたが、参謀の范増(はんぞう)が、強固に和睦に反対しました。

劉邦の才覚を見抜いていた范増は、以前に、劉邦殺害の大チャンスをのがしているからな・・・今度こそはと思ったのだろう。

※陳平は一計を案じ、項羽の有能な家臣の数人をターゲットにして、「項羽を裏切ろうとしている。」と吹聴し、項羽と家臣の中を割こうと策略します。それが功を奏し、ここまで項羽を支えてきた名参謀の范増さえ信用しなくなった項羽は、范増を遠ざけます。怒った范増は項羽のもとを去り、彭城へ帰る途中で病死します。

※さらに陳平は「金蝉脱殻(きんせんだっかく)」という兵法を用いて、劉邦の滎陽脱出に成功します。なんと、婦女二千人に甲冑を着せて城門から出し、襲ってきた楚軍が婦女だとわかって攻撃をやめると、その次に武将の紀信を劉邦に変装させて王の車に乗せ城から出し、降伏を装ったのです。城を包囲していた項羽軍は、劉邦が降伏したと思い大喜びしました。そのすきに、劉邦は陳平ら数十騎を連れて滎陽を脱出します。「金蝉脱殻」とは、蝉が殻を残して飛び立つことを意味します。つまり、主力がそこに留まっているように偽装しておいて、敵が気づかぬうちに撤退するという作戦だったのです。

城門から兵士が出てくれば包囲していた敵が一気に襲ってくるはず、それも見越して兵士を損失を最小限におさえるために婦女に甲冑を着せて城外に出させるとは・・・まさに奇策!

BC202年:劉邦が、項羽を垓下(がいか)で項羽軍を破り、項羽は敗走中に死亡する。西楚は滅亡し、漢が中国を統一する。【垓下の戦い】

※劉邦は、一旦本国に帰り、兵士と食料を補強して軍勢を立て直し、再び項羽と戦います。

※広武山では、項羽軍は兵糧不足のため兵士が疲弊し、劉邦軍は劉邦の父が人質に捕らえられていたために、双方迂闊に手が出せない状態で、膠着状態が続きました。項羽は「一対一で雌雄を決しよう。」と言いますが、力では到底かなわないと知っていた劉邦はこの申し出も断ります。しびれをきらした項羽は武将に「誰か突破する者はいないのか。」と命じましたが、劉邦軍の矢の名手にすべて阻まれました。項羽は怒り、自ら甲冑を付けて陣を出ると、あまりの勢いに劉邦軍は退きました。劉邦がその猛者が誰なのか密かに見に行くとそれは項羽でした。そこで劉邦と項羽は言葉を交わしますが、劉邦が項羽のこれまでの行為を責め立てると、逆切れした項羽は矢を放ち、その矢で劉邦は負傷し、退却を余儀なくされます。

※このとき、西楚の北の国々を攻略していた漢の将軍韓信は、斉に進軍してきた西楚の軍を破り、西楚に迫っていました。状況を有利と見た劉邦は、再び広武山へ行き、項羽に「天下を二分しようではないか。」という和睦を申し入れ、父の解放を願います。食糧補給路を断たれ、すでに食糧が底をついていた項羽もこれを受け入れ、一旦は和睦が成立します。

これはかなり項羽に有利な条件だと思うが・・・まあ、彭城で56万対3万で大敗しているからなあ・・・。

※項羽は陣を解いて西楚へ帰りました。劉邦も漢へ帰ろうとしますが、張良と陳平がこれを制止します。張良と陳平が「項羽軍は食糧が尽きて兵士が疲れています。一方こちらは、食糧も十分あり兵力も十分です。今、項羽軍を討たなければ、虎を養って自ら禍根を残すようなものです。」と進言し、劉邦は和睦を破棄して項羽軍を追撃します。

※劉邦軍は、項羽軍の背後を襲い、固陵(こりょう)という地で、斉にいた韓信と梁にいた彭越(ほうえつ)とで挟み撃ちにする作戦を立てたが、韓信と彭越は現れず、劉邦軍は項羽軍に大敗してしまします。

※劉邦は、西楚の周辺国の攻略に大いに貢献した韓信らに西楚を破って中国を統一した後の領地を保証していませんでした。韓信は、自分に働きがなければ劉邦は中国を統一できないと自負していたため援軍を送りませんでした。結果、劉邦軍は項羽軍に大敗してしまいます。

※劉邦は、張良の進言を聞き入れ、西楚を滅亡させた後の論功行賞を定め、韓信を斉王に、彭越を梁王にすることを約束します。これにより韓信は30万の兵を動かし、劉邦軍は総勢40万の兵で、項羽が居城する垓下を取り囲みます。対する項羽軍は10万の兵で交戦し、一時は韓信を退けるも、食糧も十分にあり兵力も十分な劉邦軍の前に再び城は何重にも包囲されてしまいます。このとき、項羽は四方から聞えてくる楚の歌に、敵軍はすでに故郷楚を占領したのか。なんと楚の人の多いことか。」と敗戦を悟ったと負います。これが有名な「四面楚歌(しめんそか)」という故事となり後世に伝えられます。

※項羽は、わずか800騎で、城を抜け出し敗走しますが、劉邦軍はこれを5000騎で追撃します。項羽が東城まで逃れてきたときには28騎になっていました。それでも、項羽は一人で数百人を相手にし奮戦しますが多勢に無勢、ついに項羽は討ち取られてしまいます。史記の項羽本紀では、傷を負った項羽が漢の軍勢の中に昔なじみを見つけて「俺の首に賞金がかかているそうじゃないか。その賞金お前にくれてやろう。」と自ら首を切って自決したと伝えています。

項羽と劉邦の戦いは、「史記」をもとに多くの戯曲や物語が作られました。その昔、NHKで人形劇をやっていたのを覚えています。生まれも性格も正反対と言っていいほどの二人ですが、二人ともこの時代の主役と言えるでしょう。今回はここまでです。

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