【阿波の古墳を行く!】鷲住王の子孫、阿波脚咋別一族の首長墓?「宍喰古墳」(海陽町宍喰)

阿波の古墳を行く!
徳島県南部の海陽町宍喰に、全長約12mの横穴式石室をもつ古墳がありました。宍喰古墳と名付けられた古墳は、海部氏の祖、鷲住王の子孫、阿波脚咋別一族の首長墓ではないかと言われています。

宍喰古墳とは?

宍喰古墳は、宍喰中学校横の県民運動場の脇にあります。

宍喰古墳は、県民運動場のほぼ中央まで突き出ていた尾根の上にあった。それを運動場造成の時、現在の位置に移したものである。この古墳は大正10年頃、赤土を取っている時発見され、石室内の調査によって、折れた刀と土器が検出された。その当時既に天井石もなく、奥壁の石と側壁の石を残すだけであったといわれている。その後、側壁の石も水田の水口や土止めなどに使用され、多くの石を失ってしまった。また、この古墳は本県の最も南にあり、地山を掘りこんで石室を築き、盛土をした円墳で、横穴式石室の埋葬施設をもったもので、海部郡海陽町大里にある大里古墳より、少し大きい規模をもっていたと考えられる。古墳は千数百年前築かれた墓で、このように大きな墓を築くには、それだけの勢力をもった人が住んでいたことになり、海陽町の歴史を研究するうえで、大切な資料となるものである。~海陽町教育委員会~
移築された横穴式石室は、玄室部分で、長さは約5m、幅約1.5m位だと思われます。奥壁に大きな岩が置かれ、側壁は、頭大の石が丁寧に積まれているのがわかります。

築造年代は不明ですが、宍喰古墳から約7km北東にある大里古墳が6世紀後半から7世紀と考えられているので、おそらく同時期に造られたものと考えられます。古墳規模から考えて、宍喰川流域を治めていた豪族の首長墓と言えます。

【阿波の古墳を行く!】被葬者は鷲住王一族?「大里古墳」(徳島県海陽町)
徳島県南部の海部川の河口、大里海岸に近い平野部に大里古墳がある。崩壊しかけていた古墳が復元整備されたらしい。これは、捜査せねばなりませぬ。

宍喰古墳の被葬者は?

ちゃぼたつ
ちゃぼたつ

6世紀頃、宍喰川流域を支配し、宍喰古墳を築いた豪族とは、どのような一族だったのでしょう。そのヒントは、宍喰古墳から宍喰川を上流へのぼった奥深い山の中の神社にありました。

その神社は、大山神社と言います。

ちゃぼたつ
ちゃぼたつ

なんとも趣のある参道です。まさに、パワースポット!参道を登って行くと社殿が見えてきました。

大山神社は、鷲住王を祀っています。

大山神社由緒

当神社は、鷲住王を祀り申し上げ、宍喰町の開拓の祖神として古くから崇敬せられています。日本書紀によれば、鷲住王は第十二代景行天皇の曽孫に当たらせられ、履中天皇の皇后の御兄であらせられます。今を去る凡そ千五百有余年前宍喰地方に移住されて付近一帯をも開発統治したと伝えられています。
大山神社には、鎌倉時代に大陸で作られた鐘が伝わっています。
金の鐘の銘文に「明昌七年丙辰四月日金鐘一を鋳〇」とあり、明昌は金の国の年号で日本では後鳥羽天皇の建久七年(1196)のことである。八百年前の昔大陸で作られた金の鐘がどうして山深い大山神社に祀られていたのであろうか?その昔倭寇といって多くの武士たちが隊を組んで海を渡り大陸沿岸で盛んに交易をした時代があった。海部の人々は航海術に優れていることから倭港に加わり大陸からこの鐘を持ち帰って大山神社に奉納したものであると云われている。
倭寇と呼ばれた人々の祖先は、おそらく海人族で、宍喰川流域に拠点を置き、交易を行っていたと考えられます。

鷲住王とは?

鷲住王は、日本書紀に登場する人物です。その人物像を日本書紀の記述から拾ってみました。
・讃岐国造
阿波脚咋別の始祖
・第17代履中天皇の嬪である太姫郎姫と高鶴郎姫の兄
・鯽魚磯別王(ふなしわけのおおきみ)の子
・強力の持ち主
・住吉邑に居る
・天皇の再三にわたる召喚にも応じず
阿波脚咋別の祖が鷲住王で、「脚咋(あしくい)」が「宍喰(ししくい)」になったと言われています。「富田家文書」という古文書には、室町時代に海部川流域を支配した海部氏の祖先は鷲住王であると書かれています。
ちゃぼたつ
ちゃぼたつ

鷲住王は、なかなか豪快な人物だったようですね。

まとめ

宍喰川の河口付近は、畿内から高知を経て、九州へ向かう海洋ルートの要所になります。鷲住王を祖とする脚咋別一族は、鷲住王が祀られている大山神社付近を拠点とし、宍喰川流域や北東の海部川流域、南西の野根川流域を支配したと考えられます。古墳造営には、大きな経済力と多くの人々を動かす支配力が必要です。交易によりこの地で力をもっていった脚咋別一族の一端がうかがえます。脚咋別一族の子孫は、その後も海部氏として大陸や朝鮮半島との交易で活躍することになります。

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