安房忌部の子孫となる洲宮神社祠官小野家所蔵の「斎部宿祢本系帳」には、阿波忌部の祖の天日鷲命の父として天背男命が記されています。
神魂命‐角己利命‐天底立命‐五十狭布魂‐伊加志保魂命‐天背男命‐天日鷲翔矢命
天背男命の項には、亦名を天石門別命、明日名門命といい、后神が八倉比賣命であると記されています。

亦名が天石門別命で、后神が八倉比賣命!
天背男命は、「古事記」「日本書紀」には登場しません。
「斎部宿祢本系帳」以外に天背男命の名が見いだせる古書は「先代旧事本紀(807~906年)」と「新撰姓氏録(815年)」です。
先代旧事本紀から探る
「先代旧事本紀」は、807年~906年の間に成立したと考えられています。
現存する最古の写本は、ト部兼永が1521年~1522年にかけて書写したものだとされています。
その写本には、天降りする饒速日命に随伴した人物が列記されているのですが、天背男命の名が重複してして記されています。
※国会国立図書館デジタルコレクション「天理図書館善本叢書 和書之部 第41巻 (先代旧事本紀)」
11番目に「天背男命山背久我直等祖」
16番目に「天背男命尾張中嶋海部直等祖」
ト部兼永もさすがにおかしいと思ったのでしょう。
16番目の天背男命の横に小さく「斗女イ本」と、異本に天背斗女命とあると記しています。
また、ト部兼永が原本とした写本には、31名しか記載がなく、小さく天村雲命を書き加えています。
さらに、「先代旧事本紀」の神代本紀に高皇産霊尊の三男に天神立命がいて「山代久武直等祖」と記されており、これが、「山背久我直等祖」ではないかという疑義も持っていたようです。
これを整理したのが、江戸時代の神道学者の度會延佳が1678年に記した先代旧事本紀の校本「鼈頭舊事記」です。
11番目に「天牟羅雲命度會神主等祖」
12番目に「天神立命山背久我直等祖」
17番目に「天背男命尾張中嶋海部直等祖」
※国書データベース「鼈頭舊事記」
度會延佳は、6歳で豊受大神宮権禰宜となり、度會神道の興隆に努めた人物です。11番目に、度會氏の祖とされる天牟羅雲命を加え、神代本紀の記述に沿って山背久我値の祖を天神立命とし、天背男命は尾張中嶋海部直の祖としています。

自分の祖先を随伴の32人にちゃっかり加えている
「延喜式神名帳(927年)」に記載の「尾張国中島郡尾張大國霊神社」の宮司を務めてきたのが、久田氏・野々部氏です。その久田氏の祖先が中島直で、その祖神を祀ったのが同じく延喜式内社の「尾張国中嶋郡久多神社」です。久多神社の祭神は、天背男命です。

尾張中嶋海部直というぐらいだから海人族か?
神社伝承や氏族伝承がありますから、天背男命は、尾張中嶋海部直等の祖だと思われます。そうなると、天背男命は、海部の祖で海人族ということになります。阿波から東国へ渡った阿波忌部は、海人族を率いていたことは間違いないでしょうから、尾張で途中下車した一族がいたとしても不思議ではありません。
新撰姓氏録から探る
「新撰姓氏録(815年)」に、天背男命が登場するのは二か所あります。
左京宮部造天壁立命男天背男命之後也
山城国今木連神魂命五世孫阿麻乃西乎乃命之後也
宮部造は、祖である天背男命を天壁立命の子としてます。
「斎部宿祢本系帳」では、神魂命の二世孫の天底立命の亦名が天壁立命だとし、三世孫五十狭布魂、四世孫伊加志保魂命で、五世孫が天背男命だとしています。
天底立命は、「豊受大神宮禰宜補任次第」や「度會氏系図」に、天曽己多智命と記され、登場します。

これ、天壁立命と音が似ている天曽己多智命を系図に取り込んで度會氏とのつながりを示したのでは?
「新撰姓氏録」を信じると、天背男命は、神魂命の五世孫で、父が天壁立命ということになります。「斎部宿祢本系帳」が天壁立命とする天底立命の位置は違いますが、神魂命五世孫という点では一致しています。
天背男命の御子たちから探る
天日鷲翔矢命のほかに天背男命には5人の御子がいます。
許登能麻遅命(ことのまじのみこと)
「藤原氏本系帳」に、「天児屋根命父興登魂神娶玉主命之許登能麻遅命所生也」とあり、許登能麻遅命の父が玉主命であることがわかります。

天児屋根命は、中臣氏の祖。忌部氏のライバル的存在。
そうなると、「天背男命=玉主命」ということになります。
天比理刀咩命(あめのひりとめのみこと)
「延喜式神名帳(927年)」に、「安房国安房郡に后神天比理乃咩命神社大元名洲神」と記載され、また、「続日本後紀」にも承和9年(842年)安房大神第一后神天比理刀咩命神に従五位下の神階が授けられたことが記されています。
これらは、安房大神である天太玉命の后神であることを示しています。
延喜式内社の天比理乃咩命神社については、洲宮神社と洲崎神社が式内社であることを主張しています。
「斎部宿祢本系帳」は、この洲宮神社祠官小野家所蔵ですので、当然、天比理刀咩命の父は天背男命となります。
天津羽羽命(あまつははのみこと)
土佐国の神道家である谷秦山(1663年~1718年)が著した「土佐國式社考1705?)」に、「土佐風土記日、土佐郡有朝倉郷、郷中有社、神名天津羽羽神。天石帆別命。今天石門別神子也。」と「土佐風土記(8世紀中ごろか?)」からの引用があり、天津羽羽神は、天石門別神の子としています。
そうなると、「天背男命=天石門別神」ということになります。
「斎部宿祢本系帳」では、天津羽羽命を八重事代主命の妻と記しています。
事代主命も阿波とかかわりの深い神様です。
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天萬栲幡千幡比賣命(あめのよろずたくはたちはたひめ)
「斎部宿祢本系帳」では、天萬栲幡千幡比賣命を天児屋根命の妻としてます。

つまり、天背男命は天児屋根命の母と妻の父であるわけだ。
「日本書紀」の一書の第八に、高皇産霊尊の娘として天万栲幡千幡姫が登場します。名前が同じですが、この姫は、天照大神の子の天忍穂耳命の妃となり、尾張連の遠祖天火明命と天孫瓊瓊杵尊を産むとあります。

名前がよく似ているとはいえ、「日本書紀」に登場する姫神の名をなぜ天背男命の御子として系図に取り込んだのか?
「斎部宿祢本系帳」では、天萬栲幡千幡比賣命の亦名を天棚機比賣命としています。
「古語拾遺(807年)」には、天照大神の天岩戸隠れの場面で、天太玉命が率いた神として天日鷲命らとともに登場し、神衣を織った神に天棚機姫命が記されています。
登場場面からして、天児屋根命の妻としては、天棚機姫命がふさわしいような気がします。
天児屋根命を祀る春日大社では、天児屋根命の后神を比賣神として祀っており、そもそもよくわかっていません。天美豆玉照比売命という亦名もありますが尊名のような感じがします。
櫛明玉命
「古語拾遺(807年)」には、天照大神の天岩戸隠れの場面で、天太玉命が率いた神として天日鷲命・天棚機姫命らとともに登場し、八坂瓊之五百箇御統曲玉を作ったと記されています。
「先代旧事本紀」には、櫛明玉神は伊弉諾尊の御子であるという記述があります。
「日本書紀」の一書(第二)には、紀國忌部の遠祖手置帆負神を以って作笠者、彦狭知神を作盾者、天目一箇神を作金者、天日鷲命を作木綿者、櫛明玉神を作玉者とするとあり、すべて地方忌部の祖なので、櫛明玉神も忌部神であることがわかります。
「先代旧事本紀」が、伊弉諾尊の御子としている根拠がわかりませんが、櫛明玉命も天日鷲命、天棚機姫命の兄弟神と考えてもよいかもしれません。ただ、天背男命の子というのは「斎部宿祢本系帳」以外どこにも記されていません。

「斎部宿祢本系帳」を信じると、初期ヤマト王権において祭祀を司った2大氏族である中臣氏と忌部氏の祖の天児屋根命と天太玉命の義父が天背男命ということになります。名前のよく似た神様を系図に取り込んで系譜を厚くしたことも考えられます。それに、これほどまでの神が、「古事記」「日本書紀」どころか、忌部氏が手掛けた「古語拾遺」にも登場しないのも疑問です。
天背男命の正体に迫る
「斎部宿祢本系帳」には、天背男命の亦名として天石門別命、明日名戸命の二名が記されています。
前述の「土佐国風土記」では、「斎部宿祢本系帳」で天背男命の御子と記された天津羽羽命の父神を天石門別命であるとしています。

それで天背男命=天石門別命というわけか。
天石門別命は、「古事記」「先代旧事本紀」に登場し、邇邇芸命の天孫降臨に同行しています。「古事記」には、「天石戸別神亦名謂櫛石窓神亦名謂豊石窓神此神者御門之神也」と亦名が記されています。
「古語拾遺(807年)」には、櫛磐間戸神、豊磐間戸神が登場し、天太玉命の御子であると書かれています。

そうなると、天石門別命は天太玉命の子ということになるが、天石門別命=天背男命ということに矛盾する。
谷秦山の「土佐國式社考(1705?)」には、「延喜式神名帳(927年)」にある「土佐国吾川郡天石門別安國玉主天神社」について次のように記されています。
天津羽羽神の父は、天石都倭居命である。高魂命の孫で天太玉命の子に天石門別命がいるが、この神ではない。「藤原本系帳」に、天児屋命はその父神興登魂命が玉主命の娘の許登能麻遅媛命を娶って生んだとある。万葉集によると玉主は「たまもり」と読む。「たまる」と語が通じる。宮中神祇官の西院に坐ます玉積生日神、古語拾遺の魂留産霊など。姓氏録に神魂命の子安牟須比命とある。思うに魂霊は「むすび」と読んだのではないか。玉主と音が似ている。合わせて考えると、天石都倭居命、玉主命、玉積生日命、安牟須比命の四名は同一神である。すべて天児屋命の外祖父であり、だから神祇官に祀られている八神の中の一神なのだ。
つまり、同じく土佐国の延喜式内社である朝倉神社の祭神である天津羽羽命の父は、天石都倭居命であって「古事記」に登場する天石門別命ではないと言いたいわけです。
「新撰姓氏録(815年)」をみると、天石都倭居命は多米連の祖となっています。
河内国神別多米連神魂命児天石都倭居命後也
そのほかの多米氏をみると、天日鷲命を祖としています。
左京神別中多米連多米宿祢同祖神魂命五世孫天日和志命後也
右京神別多米宿祢同神五世孫天日鷲命後也
摂津国神別多米連神魂命五世孫天比和志命後也
つまり、「神魂命‐天石都倭居命‐〇‐〇‐〇‐天日鷲命」となり、「斎部宿祢本系帳」の「神魂命‐角己利命‐天底立命‐五十狭布魂‐伊加志保魂命‐天背男命‐天日鷲翔矢命」とは少々異なりますが、天日鷲命への系譜で、天石都倭居命と天背男命がつながります。

それで、天背男命=天石都倭居命というわけか。
「土佐國式社考(1705?)」で谷秦山は、「天石都倭居命=天石門別安国玉主命」だとしていますが、天石門別安国玉主命の名は、「古屋家家譜」にも記載があります。
高皇産霊尊‐安牟須比命‐香都知命‐天雷命‐天石門別安国玉主命‐天押日命
天押日命は、「日本書紀」や「古語拾遺」「先代旧事本紀」にも登場し、大伴連の祖となっています。

高皇産霊神系なので、そもそも系統が違う。
注目すべきはこの系譜の注記に「一名大国栖玉命、一名大刀辛雄命、妻神八倉比売命」と記されていることです。
「斎部宿祢本系帳」では、八倉比売命は天背男命の妻で、忌部氏や中臣氏の后神を産んだことになっています。「古屋家家譜」では、八倉比売命は、天石門別安国玉主命の妻で、大伴氏の祖神を産んだことになります。

それで、天背男命=天石門別安国玉主命というわけか。
「古屋家家譜」に、天石門別安国玉主命の一名が大刀辛雄命となっていますが、「土佐国吾川郡天石門別安國玉主天神社」の祭神は天手力雄命とされています。

そうなると、天背男命=天手力雄命で、天日鷲命の父神は天手力雄命になる。
阿波での天背男命
仮に「天背男命=天石門別安国玉主命=天手力雄命」ということになると、「古事記」に「手力雄命は佐那那縣に坐す」と記されているように阿波の佐那河内村には天手力雄命を祀る天石門別神社があり、妄想が広がります。
天手力雄命といえば、伊勢神宮内宮の相殿で祀られているほどの神様です。天背男命が天手力雄命だとすると「斎部宿祢本系帳」がそれを記さなかったのは解せません。
また、忌部氏の復権をかけて「古語拾遺」を上奏した斎部廣成がそれに気づかなかったのも不思議です。

天背男命と天手力雄命はさすがに別神と理解していたからか?
天背男命を祀る神社となると、残念ながら阿波では見つけることができません。
しいていえば、那賀郡上那賀町大戸に、よく似た名の加賀背男を祀る明現神社があり、天太玉命ともに祀られています。
「日本書紀」には、同じ音の香香背男が、葦原中国平定に最後まで抵抗した星神として記されています。

天背男命とはちょっと違うような。天太玉命と一緒に祀られているというのが気になるが。
まとめ
「斎部宿祢本系帳」に記された天日鷲翔矢命の父神である天背男命についていろいろと探ってみました。
「斎部宿祢本系帳」は一族の系図ですから、祖先について誇張があることは否定できません。むしろ誇張があって当然だとも言えます。
天背男命を天石門別安国玉主命っぽくして御子たち錚々たるメンバーしているのも、度會氏の祖である天曽己多智命を系図に取り込んだ形跡がみられるのも、その意図がうかがえます。
しかしながら、天背男命が誰なのかは正直わかりません。
天背男命の記載がある「新撰姓氏録(815年)」は、系図詐称を正す目的で編纂された朝廷公認の氏族名鑑です。
天背男命の後裔氏族である宮部造や今木連を調べても忌部氏とのつながりは祭祀にかかわる仕事をしていたかくらいしか出てきません。
江戸時代の国学者の平田篤胤は、天背男命に関してその著書の中で次のように述べています。
天石門別命、明日名門命、阿居太都命、伊佐布魂命、天背男命、天石帆別命、天石門別安国玉主命、豊石窓神、櫛石窓神などと申すは一神の異名で実は天手力男神に坐せば・・・
すべてが阿波忌部の祖の天日鷲命の父神だということになると、これはこれで阿波古代史がものすごいことになるような気がします
