【太安萬侶&稗田阿礼】古事記編纂に関わる2人とは、どんな人物ったのか?所縁のある神社から妄想する!

阿波古代史を妄想する!

古事記は、712年に編纂された現存するわが国最古の歴史書です。

稗田阿礼が暗誦したものを太安萬侶が書き記したものです。

さて、今回は、古事記編纂に関わった2人の人物とともに、所縁のある神社を紹介します。

文武両道であった 太安萬侶

古事記の序文の最後に「和銅五年正月廿八日 正五位上勲五等太朝臣安萬侶」と記されています。

太安萬侶は、多氏(おおうじ)という古代氏族の出身です。

奈良県磯城郡田原本町多には、多氏が祀る「多坐弥志理都⽐古神社(おおにますみしりつひこじんじゃ)があります。

多坐弥志理都⽐古神社(奈良県)

祭神は、神武天皇、神八井耳命、神沼河耳命、姫御神の四柱です。神八井耳命と神沼河耳命は神武天皇の皇子で姫御神は神武天皇の母の玉依姫とされています。拝殿の奥には、この四柱を祀る立派な本殿があります。

本殿

古事記や日本書紀に、多氏の祖が、神八井耳命(かんやいみみ)だと記されています。多氏は、多坐弥志理都⽐古神社一帯を本貫地としていました。多坐弥志理都⽐古神社の南側には、摂社の太安萬侶を祀る小杜神社があり、学問の神様として信仰を集めています。

太安萬侶を祀る小杜神社

多氏として日本書紀に名を記すのが、多臣品治(おおのおみほんち)です。672年に起こった壬申の乱で、後の天武天皇となる大海人皇子の命を受けて、真っ先に挙兵した人物です。そうした功績もあってか、684年に制定された八色の姓の制度で、朝臣(あそん)姓を賜ります。

この多臣品治の子が、太安萬侶だと言われています。太安萬侶は、大宝4年(704年)に、正六位下から従五位下に叙され、和銅4年(711年)正五位上に進みます。この年の9月に元明天皇の命を受けて、古事記編纂にとりかかり、たった4か月で完成させました。

その後、和銅8年(715年)従四位下に進み、民部卿に就任しました。民部卿とは、今でいう国務大臣のような役職です。多氏で一番の出世頭かもしれません。民部省は、租税を管轄する役所ですから、文官のイメージがあります。しかし、勲三等は、武功により叙されることから、太安萬侶も古事記編纂を命じられるまでは、父の多臣品治のように、武官として功績をあげ昇進していたと思われます。

太安萬侶は、平城京の「左京四條四坊」(現在の奈良県立図書情報館辺り)に住んでおり、養老7年(723年)7月に亡くなったことがわかっています。

なぜ、そんなことがわかるのかというと、昭和54年(1979年)に、奈良県奈良市田原町此瀬で、茶畑の開墾中に、太安萬侶の墓誌が偶然発見されたのです。青銅製の墓誌には、次のように記されていました。

左京四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以 癸亥年七月六日卒之 養老七年十二月乙巳

「古事記は偽物!」「太安萬侶は架空の人物!」などといった説がありましたが、この墓誌の発見により、太安萬侶は実在の人物であることが極めて高くなりました。1200年以上経って発見されるなんて、まさに大発見!これだから、古代史・考古学はおもしろいんですね。

この太安萬侶のお墓、平城京の近くだと思ったら、とんでもないところにありました。

多坐弥志理都⽐古神社のある田原本町から名阪国道経由で行ったのですが、ここからの山道が大変でした。帰りは、奈良市内へ向かったのですが、こちらの道は広く、こっちを通るべきだったと後悔しました。その分、辿り着いた感はありましたが・・・。

太安萬侶の墓は、記事通り、茶畑の中にありました。なんとものどかな風景です。千年以上、太安萬侶がこの地に眠っていたと思うと、感慨深いものがあります。

墳丘は、直径4.5mの円墳と推定され、埋葬施設は中心部に墓壙を掘り、底に木炭を敷いて墓誌を置き、その上に木櫃を安置し、四周と上面を木炭で覆った木炭槨であった。さらに、その上の墓壙全体にうすく木炭を敷いた後、砂質土を版築状に硬くつき固め、木櫃の中には、火葬骨、真珠等が収めてあった。

現地説明板より引用

しかし、なんでまたこんな山の中に墓が作られたのでしょうか。詳細は、わかりませんが、多氏の本貫地が田原本町、墓があるのが此瀬町田原・・・。古くからある地名が、太安萬侶の墓所を示していたのです。

稀代の才能をもつ 稗田阿礼

太安萬侶以上に実在が疑問視されてたのが稗田阿礼です。古事記には、その人物像について、こう記されています。

時有舍人、姓稗田、名阿禮、年是廿八、爲人聰明、度目誦口、拂耳勒心。

年は28才。聡明で、一度目にしたものは暗誦でき、耳で聞いたことは記憶できたとあります。古事記は、上中下巻、神代から推古天皇までことを記しています。小学校で稗田阿礼を習った時に、いくらなんでも暗誦は無理だろうと子どもながらに思ったものです。

しかも、天武天皇が稗田阿礼に命じてから、元明天皇が太安萬侶に編纂を命じるまでに約30年もたっています。「太安萬侶に記録させるから、覚えていることを暗誦しなさい。」なんて勅命で言われたら、真っ青になります。

しかし、太安萬侶の墓誌発見により、稗田阿礼実在の可能性も高まったといえます。太安萬侶と同じように稗田阿礼を祀る神社が奈良県にあります。奈良県大和郡山市にある賣太神社です。

賣太神社

賣太神社は、稗田阿礼命を主祭神として、副祭神に、猿田彦神と天鈿女命を祀っています。

この稗田の地は太古の昔より朝廷に奉仕した猿女君稗田氏族の居住地であって、
天武天皇の舎人稗田阿礼はこの一族として出仕したのである。

賣太神社由緒からの引用

猿女君は、天鈿女命を祖とする氏族です。天鈿女命は、天照大神が天岩戸に隠れたときに、舞を舞って誘い出した人物です。また、瓊瓊杵尊の天孫降臨にも同行し、猿田彦神と出会い、その後は猿田彦神に仕えた、また、妻になったと伝えられています。

だから、賣太神社に天鈿女命と猿田彦神が祀られているんですね。

【阿波の神社を行く!】天円山の山頂に天鈿女命を祀る天ケ津神社
天円山と書いて「あまがつぶ」と読みます。徳島県鳴門市にある天円山は別名を天ケ津峰ともいい、標高434mの山頂に、天ケ津神社が鎮座しています。天ケ津神社は、天鈿女命(あめのうずめのみこと)を祀っています。向かいの大麻山に鎮座した猿田彦命とは夫婦神、古代阿波の秘密・・・においます。

猿女君は、古語拾遺によると、「神楽の事に供す」とあり、祭祀の舞や歌を担っていたと考えられています。天鈿女命も芸能の神様として知られています。

猿女氏のうち、大和国添上郡稗田に居住した一族が稗田氏を名乗り、賣太神社を創建したと思われます。賣太神社のある稗田集落は、中世に造られた環濠集落の跡を残しています。古き時代の姿をよく残す町並みです。何といっても道が狭いので、ゆっくり歩いて散策するのも面白いかと・・・。

稗田環濠集落
稗田環濠集落

稗田阿礼は、猿女君稗田氏の出身で、天武天皇に舎人として仕えており、その才能を天皇に見いだされて、「帝皇日継」と「先代旧辞」を「誦み習わす(よみならわす)」ように勅命を受けました。

日本書紀天武天皇10年(681年)に、天武天皇は、川島皇子らを大極殿に集め、「帝紀」および「上古の諸事」を記し校定させたとあります。これは、太安萬侶が712年に記した古事記序文の「帝紀を撰録し、旧辞を討覈(たうかく)して・・・」という箇所に合致します。つまり、稗田阿礼が天武天皇の勅命を受けたのもこの頃だと思われます。

それを、30年後、元明天皇が、「稗田阿礼の誦む所の勅語の旧辞を撰録して献上せよ。」と太安萬侶に命じたのです。ここで、重要なのは、太安萬侶が、稗田阿礼が誦む所の勅語の 旧辞 を撰録したということです。稗田阿礼がんだのは、帝紀ではなく、旧辞なのです。

旧辞とは、古代の神話や伝承の記録の事です。もしこれが、文章として残っていたとしたら、天武天皇は、文章として残っていたものを、わざわざ稗田阿礼に暗記させ、それをまた文章にしようとしたことになります。偽りを削って真実を後世に伝えると決意した天武天皇が採用するにしては、やけに不確かな方法です。だから、口伝で伝えられていたものを稗田阿礼が暗記したことになっているのです。

稗田阿礼が30年経っても覚えていた古代の神話や伝承を誦んで、それを太安萬侶が書き記したことになっています。覚えていた稗田阿礼もすごいけど、口述筆記した太安萬侶もすごい・・・。しかも、たった四か月で完成するとは・・・。

どうも、すべてがすごすぎるので、もっと現実的に妄想してみました。

各氏族に残されていた古代の神話伝承は、やはり、文章で記録されていたのではないかと思うのです。

この頃には、もうすでに漢字は伝わっていましたから、帝紀や国記は、文章で記録されていたはずです。事実、645年の乙巳の変で、追い詰められた蘇我蝦夷が、屋敷に火を放ち、帝記、国記、珍宝を燃やそうとしたとき、船史恵尺(ふねのふひとえさか)が、国記を寸前で取り出して、後に天智天皇に献上したとあります。

船氏は、百済系の渡来人で、蘇我氏とも関係がありました。燃える屋敷の中から、珍宝ではなく国記を救ったのですから、よほど大切なものだったのでしょう。この国記はおそらく、漢字で書かれたものだったと思われます。

漢字で書かれた書物なら、優秀な文官たちが揃っているのですから、読める人もたくさんいたでしょう。太安萬侶も読めたはずです。しかし、旧辞のなかには、漢字ではない文字で書かれていたものもあったのです。いわゆる、神代文字 というものです。

猿女氏は、祭祀の舞や歌を担っていた祭祀一族です。神代文字も祭祀と深い関係があったと考えられています。猿女氏一族である稗田阿礼は、おそらく神代文字を解読できたのでしょう。

言わば、稗田阿礼が、神代文字で書かれた旧辞を翻訳し、それを、太安萬侶が漢字で記したのでしょう。つまり、稗田阿礼は、30年間記憶していたのではなくて、神代文字を解読するために、再び呼ばれたのです。何の根拠もないあくまで妄想ですが、この方が現実的だと思いますが・・・。

神代文字は、神社に伝わる文書などに残っていて、阿比留文字やヨシテ文字など、その種類もいくつかあります。しかし、古墳や遺跡など考古学的に見つかっていないため、存在が否定されています。

実は、阿波文字とよばれる神代文字もあるのです。「だから、稗田阿礼は阿波人だった!」なんてことは言いませんが・・・。神代文字もいろいろ調べてみたいものです。

タイトルとURLをコピーしました