物部氏は、初期ヤマト王権を支えた大豪族である。9世紀に書かれた新撰姓氏録(815年編纂)にある物部氏系譜の氏族の多くは、伊香色雄命を祖としています。
物部氏の祖である伊香色雄命ですが、927年に編纂された延喜式神名帳には、伊香色雄命を祀る神社として、「阿波国 麻植郡 伊加加志神社」が記されています。延喜式内社は当時の朝廷から幣帛を受ける重要な神社です。延喜式内社で、「伊加加志」の名がつく神社は阿波にしかありません。
物部氏と阿波。いったいどんな関係があるのでしょうか?これは、捜査せねばなりませぬ。
物部氏について
物部氏について「日本古代氏族人名辞典(吉川弘文館)」の記述を引用すると、
先代旧事本紀では、物部氏の祖は、饒速日命(にぎはやひみこと)と伝えられています。神武天皇が河内から大和に入ろうとしたときに、地元の豪族長髄彦が激しく抵抗します。その長髄彦が仕えていたのが饒速日命です。先代旧事本紀は、饒速日命は、天磐船にのって天降ったという神話を伝えています。
饒速日命は、長髄彦を殺して、神武天皇に帰順します。神武天皇のヤマト建国に大きな役割を果たしているのです。
饒速日命の子の宇摩志麻治命は、初代神武天皇のときに食国の大夫(大臣)となり、宮殿内の儀式では盾矛を立てたとあります。また、饒速日命6世孫の伊香色雄命は、第10代崇神天皇に大臣として仕え、伊香色雄命は、天つ神、国つ神の社を定め、宇陀の墨坂神(大和国宇陀郡)に赤色の盾矛を祭り、大坂神(大和国葛城郡)に黒色の盾矛を祭っています。
物部氏は、ヤマト王権で軍事面を担うとともに、銅剣や銅矛といった祭祀具も扱っていたと考えられます。伊香色男命は、一族の氏神である布都大神の社を本拠地である大和国山辺郡石上邑に遷して建てました。。現在の石上神宮です。布都大神は、布都御魂とよばれる霊剣のことで、国譲りにおいて建御雷神が葦原中国を平定した剣であり、神武東征においては、神武天皇の危機を救い勝利に導いた剣です。神武天皇を救った霊剣を一族の氏神としていることからも、物部氏が、初期のヤマト王権において軍事・祭祀に深くかかわっていたことを示しています。
奈良県石上神宮
阿波に存在する伊香色雄命の痕跡
先代旧事本紀の記述を元に系図を作ると、伊香色雄命は、饒速日命の6世孫になります。日本書紀に第10代崇神天皇のときの活躍が記されています。その活躍は、3世紀後半から4世紀にかけてではないかと考えられます。
物部氏は,伊香色雄命の子の物部大新川命のときに、第11代垂仁天皇より姓を賜り、物部連となります。9世紀に書かれた新撰姓氏録(815年編纂)にある物部氏系譜の氏族の多くが伊香色男命を祖としています。
系譜によって自らの正当性や存在感を示すのであれば、天孫の饒速日命や神武天皇の重臣であった宇摩志麻治命を祖とした方が受けが良いと思われます。しかし、そうしなかったのは、氏姓制度のもとでは、血縁よりも物部連という職能集団が一族として認識されていたからだと考えられます。つまり、軍事・祭祀集団としてヤマト王権内での地位を確固たるものとし、一族の総氏神である石上神宮を建立した伊香色男命を一族の祖として数世紀にわたって伝えてきたのです。物部氏における伊香色雄命の重要性がみてとれます。
伊香色雄命がヤマト王権内で確固たる地位を築くことができたのはなぜなんだ?
伊香色雄の姉は、伊香色謎命といいます。伊香色謎命は、第8代孝元天皇の妃でありながら、第9代開化天皇の皇后となり、後の第10代崇神天皇となる御間城入彦五十瓊殖天皇を産んでいます。
日本書紀によると、伊香色謎命の父は、大綜麻杵命(おおへそきのみこと)と記し、物部氏の祖と伝えています。
伊香色謎命は第8代孝元天皇の妃として子を産んでいます。孝元天皇が崩御したのち、第9代開化天皇の皇后となるのですから、絶世の美女だったか、政治的な影響力が働いたかのどちらかです。おそらく、孝元天皇に大臣として仕えていた大綜麻杵命の力が影響があったと考えられます。
なるほど、大綜麻杵命の政治力もあって、父の跡を継いだ伊香色雄命は、甥である第10代崇神天皇の側近として活躍したんだ。
阿波に存在する大綜麻杵命の痕跡
先代旧事本紀では、伊香色謎命の母、つまり、大綜麻杵命の妻を高屋阿波良姫であると伝えています。大綜麻杵命について文献から引用すると、
大綜麻杵命の妻は、高屋阿波良姫ということからして、阿波の出身の可能性がある。「大綜麻杵命は阿波の忌部氏なるべし。」阿府志が何を根拠に大綜麻杵命を阿波の忌部氏としているのかはよくわからない。まさか、「麻」の字が入っているからなどという理由ではないだろう。
延喜式内社の伊加々志神社から東に約7kmほどのところに、大綜麻杵命を祀る五所神社(瑜伽神社)があります。
五所神社(瑜伽神社)
大麻綜杵命(おおへつきのみこと)
瑜伽神社の登記書類は失われた歴史書の「阿波の風土記」を根拠にしているようだ。しかし、書かれている記述に矛盾がありすぎる。
①どの書を調べても崇神天皇の第3皇子に大麻綜杵命なる人物は見当たらない。
➁大綜麻杵命は、伊香色謎命の父なので、母が伊香色謎命のはずがない。
③大綜麻杵命(おおへそき)と大麻綜杵命(おおへつき)、綜と麻が逆になっていることから全くの別人という可能性もある。
④天太玉命は瓊瓊杵尊に従って天降った人物なので、あまりに時代が違いすぎる。
延喜式内社 阿波国 建布都神社
延喜式神名帳に「阿波国 阿波郡 建布都神(たけふつのじんじゃ)」という神社が記されています。その論社はいくつかあります。
阿波市土成町郡字建布都にある「建布都神社」
祭神:建布都神 経津主神
阿波市土成町成当字大場にある「赤田神社」
祭神:武甕槌命 経津主命
阿波市市場町香美字郷社にある「建布都神社」
祭神:建布都神 経津主神
建布都神は建御雷神の別名で、日本書紀では、建御雷神と経津主神が葦原中つ国の大国主命のもとに出向き、大国主命の子の事代主命と国譲りの交渉をしています。二神とも神刀にかかわる神です。「フツ」の音から、経津主神と布都御魂とを同一視し、物部氏の祖神であるとする説があります。
阿波市市場町香美字郷社にある「建布都神社」の境内には古墳があります。
建布都古墳
建布都古墳は、直径約17mの円墳であることはわかっていますが、未調査のため、埋葬施設や出土物などは不明のため、築造年代もわかりません。
これは、まったくの推理であるが、周りには怪しげな石がごろごろしている。雰囲気的に竪穴式石室を有していた感じがする。とすれば、5世紀頃の築造か?
5世頃の築造かな?
まとめ
今回の調査から推理すると・・・。
延喜式神名帳に記されている建布都神社と物部氏が関係しているとすれば、吉野川最大の中州である善入寺島を囲むように、物部氏に関係のある神社が存在している。善入寺島は、かつて粟嶋と呼ばれ、阿波忌部が開拓した地である。また、伊加加志神社の南側の山は、忌部山といい、6世紀頃に忌部氏が築いたと考えられる古墳が数多く点在している。まさに、忌部の本拠地といえる場所に物部氏の痕跡が残っているのだ。これは、ヤマト王権創成期、あるいはそれ以前に、忌部氏と物部氏の間に何らかのつながりがあったことを示しているのではないか?しかし、決定的な証拠はない。そう簡単には、古代史の謎は解けないものだ。