徳島県にある前方後方墳としては、丹田古墳(全長約37m)、奥谷1号墳(全長約50m)があります。ともに4世紀頃の築造と考えられています。それらと比べても相当大きな前方後方墳になりますね。
椎ケ丸古墳の上に建つ御所神社
まずは、古墳の上に立っているという御所神社(ごじょじんじゃ)を探すことにしました。
一の鳥居(おそらく?)から北の阿讃山脈へまっすぐ参道がのびていました。参道が行き着く先に長い階段があり、登り切った所に御所神社の社殿がありました。御所神社の祭神は、素戔嗚命と土御門天皇となっています。
・970年(天禄年間)高林坊盛尊が讃岐国宇多津浦から吹越天王を奉じ、岡の山に奉斎する。
・1696年(元禄9年)神宮司別当順雄が宮河内谷川の洪水を避け、現在の宮地に奉遷する。
・1908年(明治41年)村社となる。
・1913年(大正2年)近隣17社を合祀する。
・1957年(昭和32年)御所屋敷にあった御所神社を合祀し、御所神社と改称する。
なるほど、元は岡の山という所で祀っていたのを江戸時代に高台に移したんですね。それが椎ケ丸古墳の墳丘上だったことになりますが・・・。
これが前方後方墳???
神社は古墳の上に建つという情報でしたが、社殿の周りには古墳らしきものは見当たりません。社殿の裏へまわってみると、ここにも鳥居が建っており、「椎ケ丸古墳」という石碑がありました。
うーん、測量調査で前方後円墳らしいということで保存されたんですね。おそらく詳しい調査の予定はないのでしょうね。こうなったら妄想するしかありません。
椎ケ丸古墳の被葬者を探る
御所神社の社殿の建っているところが埋葬施設で後方部だと仮定すると、こちらは前方部ということになります。御所神社の社殿へは、南からかなり急な階段を上ってきたので、古墳は河岸段丘上の高い位置の先端部に造られています。
前期古墳らしく、とても眺めのいいところに古墳が造られています。丹田古墳も奥谷1号墳も集落もしくは水田であった平野部が見渡せる位置に造られてました。
椎ケ丸古墳のある宮川内谷川扇状地は古くから人が住んでいた地域だと考えられます。椎ケ丸古墳から約1.5km西には、知る人ぞ知る樫原神社もあります。
仮に、椎ケ丸古墳が古墳時代前期の前方後方墳だとすると、4世紀ごろに造られたことになります。全長75mという古墳規模からして、大きな経済力と多くの人々を動かす支配力をもった人物だと想像できます。阿讃山脈からの水利を生かして大きな生産力を得ていたのでしょうか。
まとめ
全長75m、四国最大級の前方後円墳とされる椎ケ丸古墳を訪ねてみました。しかし、石碑は建っているものの、どこが墳丘なのかもよくわかりませんでした。椎ケ丸古墳が確実に前方後方墳であるとわかれば、全国でも珍しい貴重な古墳となることは間違いないと思います。ぜひ、発掘調査を期待したいですね。