【阿波古代史資料】阿波国司について(その2)

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徳島県史第一巻(1964年)に掲載されている古代編史料参考にしています。

【阿波国司について(その1)はコチラ】

【阿波古代史資料】阿波国司について(その1)
歴代阿波国司についてまとめてみました。

和気広世(わけのひろよ)

任官期間 延暦18年9月(799年)~延暦19年正月(800年)

延暦18年9月(799年)に阿波守に任ぜられています。

和気広世は、和気清麻呂の長男です。

【和気清麻呂・和気広虫】
地方豪族出身ながら、朝廷の最高幹部にまで昇りつめた和気清麻呂。道教の皇位簒奪を阻止した正義と忠義心の持ち主として有名です。清麻呂の姉の和気広虫も高潔な人物で、ときの天皇の信任を受け、後宮の要職についています。当時の人々から、仲のよい姉弟と称賛を受けた二人の生涯をまとめました。

和気広世は、文章生(もんじょうしょう)として入朝しますが、延暦4年(785年)の藤原種継暗殺事件に連座したとして禁錮に処せられます。

☆藤原種継暗殺事件とは?

藤原種継は、朝廷の最高幹部である公卿を務め桓武天皇の側近として長岡京遷都を実行しました。しかし、遷都後間もない延暦4年(785年)9月、長岡京の造営監督中に襲撃され暗殺されます。暗殺実行犯の右衛門大尉大伴竹良の関係者はことごとく死罪や流罪となり、既に死去していた万葉集の編者として有名な大伴家持まで官位剥奪の処分を受けたほどでした。

和気広世は、文章生という学生ですから、おそらく、教官である文章博士(もんじょうはかせ)が、暗殺事件の関与を疑われて、連座という責任を負わされたと思われます。

しかし、桓武天皇の特別の恩赦によって、従六位下相当の少判事に任ぜられています。この恩赦は、桓武天皇の信頼の厚かった父の和気清麻呂の存在がかなり影響していると思われます。

その後、延暦13年(794年)に式部大丞となり、平安京の造営使判官となります。この時の、造営大夫が父の和気清麻呂でした。

延暦18年(799年)に、大学寮の総裁である大学別当として、墾田20町を大学寮に寄進しています。また同年に死去した父の和気清麻呂の遺志を継いで、私財を投じて大学寮に和気氏出身の子弟が学ぶための「弘文院」を創設しました。

また、父の遺志であるとして、墾田100町を出身地である美作・備前の両国の困窮者を救う財源として寄進することを上奏して許されています。

父の喪に服し、遺志である「弘文院」創設のために、延暦18年(799年)2月に辞官していましたが、その後、復官して延暦18年(799年)9月に式部少輔と阿波守に任ぜられています。

和気広世は、式部少輔を兼ねていたために、阿波守となっても阿波には赴任していないと思われる。

延暦25年(806年)に正五位下大同元年(806年)に、官庁を指揮監督する太政官の左中弁に任ぜられるも大学寮の大学頭も兼任しており、人生を通じて学問の発展と官吏の育成に力を尽くしたと言えます。

私財を投じて学問の発展や困窮者の救済を行うなど、父の清麻呂や叔母の広虫と同様に清廉で高潔な人物であったことがうかがえる。

藤原道雄(ふじわらのみちお)

任官期間 延暦19年正月(800年)~延暦22年正月(803年)?

藤原道雄は、藤原不比等の次男藤原房前を祖とする藤原北家という上流貴族の家系に生まれます。父は、桓武天皇のもとで朝廷の最高幹部である大納言を務めた藤原小黒麻呂(ふじわらのおぐろまろ)という超エリートです。

延暦8年(789年)に19歳で、天皇の身辺警護を行う内舎人となり、延暦14年(795年)24歳で、大学寮の判官(四等官の3番目)である大学大允、延暦15年(796年)25歳で従五位下に叙爵され、いきなり兵部少輔に任ぜられています。

延暦19年(800年)正月、29歳の時に、兵部少輔兼阿波守となります。同年2月には、兵部少輔兼大学頭兼阿波守となります。延暦20年(801年)7月には、従五位上に昇進しています。この時も阿波守を務めていました。次の阿波守が延暦21年(802年)正月に任命されており、その後、延暦22年正月(803年)に河内守に任ぜられています。

都の官職を務めながらの阿波守なので、阿波国には赴任していない可能性もある・・・。

河内守は地方官ながら都の隣国で交通の要所ということもあり大国の国司ということで、収入もかなりあったと思われます。半年後には、散位頭として都の官職に戻っています。その後は、刑部大輔、治部大輔を歴任し、大同3年(808年)11月には、37歳で正五位下に昇進します。この昇進昇格には、桓武天皇の後宮に入った妹の藤原上子の後押しもあったと思われます。

しかし、弘仁元年(810年)7月、いきなり能登守へ遷任されたかと思うと、8月には朝廷の最高機関である太政官の右中弁、さらに9月には左中弁へと昇格します。ところが、数か月後の弘仁2年(811年)の正月には紀伊守に遷任されています。その後、弘仁9年(818年)に都の官職に戻るまで7年間も地方官として紀伊で過ごすことになります。

これにはおそらく、弘仁元年(810年)に起こった平城太上天皇の乱の影響があったのではないかと思います。

☆平城太上天皇の乱とは?

大同4年(809年)に病に伏した平城天皇は、政変で不遇の死を遂げた早良親王や伊予親王の祟りを恐れて、即位後わずか3年で弟の嵯峨天皇に譲位して平城上皇となります。しかし、平城上皇は、寵愛していた藤原薬子やその兄で参議の藤原仲成に強く復位を勧められ、都を平城京に遷都しようとしたために嵯峨天皇と対立します。弘仁元年(810年)に、東国で挙兵しようとした平城上皇に対して、その動きを察知し、坂上田村麻呂ら討伐軍を送った嵯峨天皇が勝利しました。

嵯峨天皇は、弘仁元年(810年)9月10日に、藤原仲成ら平城上皇側の側近たちに左遷の詔を出します。同じ9月10月に、藤原道雄は右中弁から左中弁に昇格していますから、平城上皇側の官僚の左遷の結果として左中弁のイスがまわってきたのではないかと思われます。

藤原仲成と同じく平城上皇側の側近の参議藤原葛野麻呂は、藤原道雄にとって異母兄にあたります。藤原葛野麻呂も重罪とされましたが、平城上皇の東国挙兵を身を賭して反対したとして、処罰を免れています。

弘仁2年(811年)の正月の藤原道雄の紀伊守遷任は、任期終了後に任ぜられた都の官職をみても明らかに左遷であり、平城太上天皇の乱の影響があったものと思われます。

 もちろん、何かやらかしたのかもしれないし、道雄の官僚としての能力資質によるものかもしれない。道雄は、河内守は半年、能登守はわずか一月で都の官職にもどされていることも見逃せない。

弘仁10年(819年)正月、従四位下に昇進すると、弘仁11年(820年)正月に兵部大輔、同年5月大舎人頭、翌年弘仁12年(821年)右大弁、弘仁13年(822年)3月には、次期参議候補の右大弁兼蔵人頭に就きます。

そして、弘仁14年正月に従四位上に昇進し、同年4月に淳和天皇が即位すると、5月に参議兼宮内卿となり、53歳でついに朝廷の最高幹部である公卿に列せられまが、そのわずか四か月後の弘仁14年(823年)9月に死去しています。

上流貴族の藤原北家出身とはいえ、庶子である道雄が参議兼宮内卿まで出世していることから、処世術に長けた人物であったかもしれない。国司を終えた後に都で昇進昇格していることが多いので、寄進や賄賂で出世した可能性も・・・。

秋篠安人(あきしののやすひと)

任官期間 延暦21年正月(802年)~大同2年11月(807年)?

秋篠安人は、天平勝宝6年(754年)に、大和国添下郡を本拠地とする従四位下土師宿禰宇庭(はじのすくねうきにわ)の子として生まれました。※「公卿補任」による

初めは土師氏を名乗っていましたが、天応2年(782年)に改姓を奏上して認められて本拠地の添下郡秋篠にちなんで秋篠と名乗ります。

延暦3年(784年)2月、32歳の時に、少内記という朝廷の文書作成を行う官職に任ぜられます。

その後大外記として、延暦8年(789年)に、蝦夷討伐の征討大将軍の紀朝臣古佐美が進軍することなく蝦夷の族長アテルイに大敗した状況の取り調べを大納言藤原継縄(ふじわらのつぐただ)のもとで行いました。

この直後に外従五位下に叙され、翌年の延暦9年(790年)に大外記兼右兵衛佐という天皇の親衛軍の次官に任ぜられます。

さらに、延暦10年(791年)には、従五位下に昇進し、大判事、少納言と大出世します。

これは、紀朝臣古佐美の取り調べでよっぽど藤原継縄に気に入られたんだろうな・・・。

延暦15年(796年)従五位上に昇進、太政官の左少弁、右兵衛佐兼丹波守を務めます。延暦16年(797年)には「続日本紀」の編纂に関わり正五位上に昇進します。さらに、延暦17年(798年)左中弁、延暦18年(799年)左中弁兼中衛少将を歴任し、延暦19年(800年)に従四位下に昇進し、延暦21年(802年)に阿波守を兼任しています。その後は、延暦22年(803年)5月に勘解由使長官を兼任しています。

延暦24年(805年)には、太政官の要職である右大弁に就き、参議となり、54歳で朝廷の最高幹部である公卿に列せられます。

「公卿補任」によると、延暦25年正月(806年)の段階で、右大弁、勘解由使長官、近衛少将、阿波守となっています。この年の3月に桓武天皇が平城天皇に譲位しています。

延暦25年4月に従四位上に昇叙すると近衛中将に昇格、平城天皇が即位し、年号が変わった大同元年5月(806年)には皇太子御所の内政を司る春宮坊の長官である春宮大夫、7月には太政官の左大弁に昇格します。

しかし、大同2年11月(807年)に起きた伊予親王の変で、春宮大夫だった秋篠安人は、連座の疑義をかけられ参議を停止、このときに、左大弁、近衛中将、春宮大夫も解任され、造西寺長官に左遷させられています。

 おそらく阿波守もこのときに解任されたか?

その後連座の、疑義が晴れると、大同3年11月(809年)に右大弁に復官、左大弁を経て、大同5年9月(810年)再び参議に再任されます。

弘仁6年(815年)には、上級貴族に与えられる従三位に叙任されています。その後、弘仁11年(820年)高齢を理由に左大弁を辞任し、その翌年に亡くなっています。

 秋篠安人は、地方豪族出身ながら、長らく参議を務め、上流貴族に与えられる従三位を叙任されていることからかなりの実力者であったことがうかがえる。

藤原真夏(ふじわらまなつ)

任官期間 大同2年6月(807年)?

藤原真夏は、宝亀5年(774年)に、藤原不比等の次男藤原房前を祖とする藤原北家という上流貴族の家系に生まれます。桓武天皇のもとで右大臣を務めた藤原内麻呂の長男という超エリートです。

大同4年(809年に)36歳の若さで、朝廷の最高幹部である公卿に列せられています。

「公卿補任」には、公卿となる以前の大同2年(807年)6月26日に、右近衛中将兼阿波守に任ぜられたと略歴が記されています。しかし、わずか6日前の6月20日に、右近衛中将兼武蔵守に任ぜられているため、6月26日の任官の記録は、誤りではないという指摘もあります。

つまり、藤原真夏は、阿波守には任ぜられていない可能性が高いということになります。

田口息継(たぐちおきつぐ)

任官期間 大同2年11月(807年)?~弘仁4年正月(813年)

田口氏は、武内宿禰の後裔氏族とされ、蘇我氏から分立したといわれてます。

田口息継は、延暦16年(797年)従五位下に叙爵し、雅楽助、鋳銭次官を歴任しています。延暦25年(806年)に行われた桓武天皇の葬儀では、従五位下田口息継らが養役夫司を務めたとあります。

大同3年(808年)6月に左少弁に任ぜられたときに、阿波守はもとのままと記されているので、それ以前から阿波守を務めていたと思われます。

任官は、前阿波守の秋篠安人が伊予親王の変で連座の疑義をかけられ解任された大同2年(807年)11月もしくは大同3年(808年)正月か?

大同4年10月(809年)には従五位上に昇進し、11月には、平城上皇の命を受けて右兵衛督藤原仲成とともに平城京造営に着手しています。

おっと、藤原仲成といえば、平城太上天皇の乱の主犯格ではないか・・・。

☆平城太上天皇の乱とは?

大同4年(809年)に病に伏した平城天皇は、政変で不遇の死を遂げた早良親王や伊予親王の祟りを恐れて、即位後わずか3年で弟の嵯峨天皇に譲位して平城上皇となります。しかし、平城上皇は、寵愛していた藤原薬子やその兄で参議の藤原仲成に強く復位を勧められ、都を平城京に遷都しようとしたために嵯峨天皇と対立します。弘仁元年(810年)に、東国で挙兵しようとした平城上皇に対して、その動きを察知し、坂上田村麻呂ら討伐軍を送った嵯峨天皇が勝利しました。

嵯峨天皇は、弘仁元年(810年)9月10日に、藤原仲成ら平城上皇側の側近たちに左遷の詔を出しています。田口息継は、同じ9月10日に右中弁に昇格しています。これは、前々任の阿波守藤原道雄が右中弁から左中弁に昇格したことにより、空席となった右中弁に就任したと思われます。

つまり、平城上皇側で動いていた田口息継は、いずれかの段階で嵯峨天皇側についたと思われます。右中弁に昇格する直前の8月に正五位下に昇叙されていますから、このときに嵯峨天皇側から何らかの働きかけがあったのかもしれません。

さらに、平城上皇が復位をもくろみ嵯峨天皇と対立した大同5年(810年)の政変では、嵯峨天皇側について正五位下右中弁に昇格しています。

弘仁3年(812年)2月に民部大輔に任ぜられていますが、同年8月に右中弁に復職しています。このときにも阿波守を務めていたとされています。

 これだけ都で動き回っていたら、阿波に赴任していないと考えるのが自然だが・・・。

弘仁4年(813年)正月に次の阿波守が選任されているので、田口息継が阿波守を辞したのは弘仁4年正月ということになります。

「阿波国司について その2」は、ここまで!

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