愛媛県今治市の古墳を巡る!

全国古墳探訪

今回、古墳探索に訪れたのは、瀬戸内しまなみ海道の愛媛県側の町、今治市

今治市は、瀬戸内海に多くの島を有しており、その島々にも数か所の古墳が残されているようです。島々は瀬戸内しまなみ海道で結ばれており、サイクリングロードとしても有名です。今回は、瀬戸内しまなみ海道サイクリングで島の古墳を巡りました。

斉明天皇ゆかりの朝倉地区へ

まずは、今治市東部の朝倉地区を訪ねました。平安時代に編纂された「和名類聚抄」に朝倉の名があるくらい古くからある地域です。

朝倉ふるさと美術古墳館」という資料館に向かい、そこで情報取集することにしました。なかなかレトロな資料館で、まさに古墳館といった感じです。

朝倉ふるさと美術古墳館

朝倉という地名は、第37代斉明天皇が、新羅と唐の連合軍と戦うために筑紫の朝倉宮(福岡県朝倉市)に向かうときに、この地にしばらく滞在したために、朝倉と呼ばれるようになったとの説があります。

それを物語るように、斉明天皇のものとされる供養塔が伝えられています。この供養塔、古墳館でもらった地図をたよりに探したものの、辿り着くのにかなり苦労しました。トレジャーハンター感が味わえます。供養塔は、急な坂を登った小高い丘の上にあります。斉明天皇を偲んで建てられたものでしょうか?

斉明天皇供養塔

供養塔の真偽は別として、日本書紀によると斉明天皇は、小市岡上陵(おちのおかのうえのみささぎ)に葬られています。朝倉地区はかつて越智郡に属し、古代伊予では、小市国(おちのくに)と呼ばれていました。日本書紀の記す小市岡上陵は、もしかして・・・。妄想がふくらみます。

朝倉地区の古墳

樹之本古墳 きのもとこふん

樹之元古墳は、古墳館のすぐ近くにあるので、歩いて訪れることができます。県道から、こんもりと盛り上がった小山の上に大きな木が立っているのが見えます。

樹之本古墳全景
樹之本古墳頂

一見円墳に見えますが、前方後円墳と現地の石碑には書かれていました。漢式獣帯鏡などが出土し、5世紀後半に造られたのではないかと考えられています。

古墳 ねあがりまつこふん

樹之本古墳から西へ約500mほど歩いた道路沿いに、「根上り松」と刻まれた大きな石碑が立っています。一本松社という神社のようなお寺のような建物も立っている小山が根上松古墳です。墳丘らしきところにも登ってみましたが、形状もよくわかりませんでした。

根上松
根上松古墳

野々瀬古墳群 ののせこふんぐん

根上松古墳から歩いて古墳館まで戻り、野々瀬古墳群へ向かうことにしました。野々瀬古墳群は今治市のシンボル笠松山の麓にあります。愛媛県内最大の古墳群で、昭和初期の記録によると百基を超える古墳があったそうですが、現在は古墳跡も含めて46基となっているそうです。46基も確認されているだけでもすごい・・・。道路沿いに「五間塚古墳」と書かれた看板を見つけたので、車をとめて辺りを散策することにしました。

五間塚古墳(野々瀬12号墳)

五間塚古墳は、野々瀬古墳群の中では、2番目に大きな古墳で、直径約15mの円墳と推測されています。横穴式石室が大きく開口しており、石室内を見ることもできます。近くに、野々瀬12号墳があり、道を挟んで野々瀬3号墳、野々瀬2号墳が並んでいました。いずれも円墳と思われます。少し離れて野々瀬古墳群の中で最大の野々瀬1号墳がありました。野々瀬1号墳は七間塚古墳と呼ばれています。直径約18m、高さ6mの円墳で、巨石を用いた横穴式石室を見ることができます。

七間塚古墳(野々瀬1号墳)

多伎古墳群 たきのみやこふんぐん

続いて、延喜式内社の多伎神社にある多伎宮古墳群へ向かいました。野々瀬古墳群から多伎神社へ、車で約10分程で着きました。県道から山の方へ向かうと、赤い大きな鳥居が見えます。

多伎神社鳥居
多伎神社

大きな赤い鳥居を超えてしばらくすると、左手に石造りの鳥居が見えてきます。その手前の広場の看板に「・・・古墳」と書かれていたような気がして戻ってみると、「禰宜屋敷古墳群」と書かれていました。看板がなければ、生け垣の一部ぐらいにしか見えません。直径約13mの円墳だったと想定されてます。

禰宜屋敷古墳群

禰宜屋敷というくらいですから、この辺りに神社の禰宜の屋敷があったのでしょう。さらに進むと、多伎神社があります。静寂の森に囲まれた社殿はとても神秘的でおごそかな雰囲気を醸し出しています。社殿の右手に、多伎宮古墳群への案内板がありました。

多伎神社社殿
多伎宮古墳群へ

案内板通りに進み、さらに森の中へと入っていきます。異様な静けさの中、「ザッ、ザッ」という足音だけが響きます。タイムスリップしたような気分の中、「多伎宮古墳〇号」と書かれた案内板を頼りに古墳を探していきます。

多伎宮古墳群は、多伎川の上流が形成した扇状地奥の谷部にあり、東西300m、南北100mの範囲に分布していて、15基余りの古墳があります。

社殿裏にあるという1号墳は、他の古墳とは少し離れたところにありました。小石を積み上げて造った積石塚と考えられていると説明板に書かれていた通り、石がごろごろと転がっており、明らかに他の古墳とは違っていました。

牛神古墳 うしがみこふん

多伎宮古墳群から県道に戻り、少し北西に行くと道路沿いに赤字で大きく書かれた「牛神古墳」の文字が目に入ります。

牛神古墳
牛神古墳石室

牛神古墳は、直径約13m、高さ4mと推定される円墳です。横穴式石室の内部を見ることができます。竪穴式石室の存在も確認されていて、墳丘内に2つの埋葬施設がある古墳です。徳島県鳴門市にも同じように横穴式石室と竪穴式石室の2つの埋葬施設をもつ葛城神社古墳があります。造営時期も規模もほぼ同じなので、妄想をそそられます。

妙見山古墳へ

牛神古墳から今治市街を抜け、今治市西部にある妙見山古墳へと向かいました。国指定史跡にもなっている古墳で、復元整備されていると聞き、楽しみにやってきました。妙見山古墳は、藤山健康文化公園の頂上にあります。まず、公園内の大西藤山歴史資料館で情報収集することにしました。新しくできた資料館のようで、入館料を払うと妙見山古墳のタオルをくれました。さすが、タオルの町、今治。(今治タオルではないと思いますが・・・。)

妙見山古墳全景
後円部の1号竪穴式石槨

妙見山古墳は、全長55.2mの前方後円墳で、古墳時代初期の築造というから3世紀後半から4世紀前半に造られたことになります。後円部と前方部に2つの竪穴式石槨が確認されています。後円部の1号竪穴式石槨の内部が見学できますが、曜日と時間が決まっているので、調べてから行くことをお勧めします。

後円部墳丘上からの眺めは絶景で、瀬戸内海の島々がよく見えます。逆に言えば、妙見山古墳は瀬戸内海からの眺めを意識して造られていることになります。案内をしてくれた係の方と話をしていると、墳丘の海側と山側では造りが大きく違っており、海側の方は大きく2段に造られているが、山側は段築さえされていないと教えてくれました。あらためて見に行ってみると、確かにそうなっていて、海からの眺めを強く意識していたことがよくわかりました。

墳丘上からの景色は最高

係の人が、被葬者は昔この辺りを治めていた豪族の阿佐利命ではないかという説があり、阿佐利命は、近くの大井八幡神社に祀られていると言っていたので、大井八幡神社にも行ってみました。

阿佐利命は、物部氏の祖の伊香色雄命の4世孫で応神天皇の御世に、風早国造(現在の松山市東部)になっています。応神天皇の御世は、4世紀後半から5世紀初めの頃とされているので、妙見山古墳の築造年代と少しずれています。

それよりも、その前に訪れた多伎神社の社伝に、「崇神天皇の御代、饒速日命6代の孫である伊香武雄命が「瀧の宮」の社号を奉り、初代斎宮になったという。」と書かれていたのを思い出しました。「伊香武雄命って誰?」と思っていたのですが、伊香色雄命も饒速日命6世孫ですから、おそらく、伊香武雄命は、伊香色雄命の誤りと思われます。

この地域は、伊香色雄命の子孫一族が支配していたのでしょうか?阿波には、伊香色雄命を祀る延喜式内社の伊加々志神社があります。伊香色雄命を祀る神社はたくさんありますが、延喜式内社で伊加々志を冠する神社は阿波の伊加々志神社だけです。一体どんな関係が・・・。またしても妄想が・・・。

【妄想の阿波古代史】忌部氏の本拠地に存在する物部氏の痕跡!なぜそこに物部氏が?阿波忌部氏との関係は?
ヤマト王権の黎明期を支えた物部氏の祖である伊香色雄命をはじめ、阿波忌部氏の本拠に物部氏に関係する神社が数多くあります。物部氏によるといわれている歴史書「先代旧事本紀」は、伊香色雄命の母の名を高屋阿波良姫と伝えています。もう、阿波と関係ないはずがない。

1日目は、今治城を見学して、今治名物「焼豚玉子丼」を食べて終了!

瀬戸内しまなみ海道サイクリングで島の古墳へ

しまなみ海道を自転車で無料で渡れるとは知りませんでした。期間限定ですが・・・。

さすがに全部を自転車で渡るのはきついので、まず車で「伯方の塩」で有名な伯方島へ向かいました。

岩ケ峯古墳 いわがみねこふん

伯方島で目指すは、岩ケ峯古墳。岩ケ峯古墳は、車をとめた道の駅から約8kmほどあります。あと少しのところで現れたのは、激しい急坂!岩ケ峯古墳は、その名の通り、岩ケ峯の山頂にありました。

墳丘はなく、横穴式石室と思われる遺構だけが残されていました。古墳は、瀬戸内海が見渡せる位置にあり、後世に木浦城が築かれた場所で、墳丘は築城時に除去されたと考えられています。石室内から多量の製塩土器や鉄製武具が出土し、ふるさと歴史公園居館に展示してあると書かれていました。近くに立派なお城を模した資料館があったので行ってみると残念ながら閉館していました。まだ新しそうなのに・・・。もったいない・・・。

戸代古墳 としろこふん?

伯方島から伯方・大島大橋を自転車で渡り、大島へ。橋の上は快適なのですが、橋に上るまでの上り坂がかなりきついです。大島へ渡って、戸代古墳へは、約5㎞あります。途中で、村上水軍ミュージアムへ立ち寄りました。新しい施設で、結構見どころがありました。

村上水軍ミュージアムを堪能して、古墳巡り再開。地図が示す戸代古墳の近辺まできましたが、よくわかりません。海辺の古墳あるあるで、近くまで来ているのに、たどり着けないというのはよくあります。うろうろしていると、もしかしてこれかな?という小山がありました。案内板もないので自信がありませんが、墳頂に燈籠のような祠のようなものがあります。たぶんこれでしょう。

大島には、藤崎古墳という古墳があるのですが、戸代古墳とは反対側の島の南にありました。自転車転で行き来するのは時間的にもったいないし、大三島の大山祇神社にも行きたいし、せっかくなら自転車で来島海峡大橋も渡りたいので、いったん伯方島へもどり、そこから車で大山祇神社へ行くことにしました。

さすが、伊予国一宮、日本総鎮守といわれる大山祇神社です。驚いたのは宝物館です。入館料1000円に少々迷いましたが、せっかく来たので入ってみました。斉明天皇が白村江の戦いの際に奉納した鏡や源頼朝や源義経が奉納した鎧や刀もありました。まさに国宝級のお宝がずらりと展示されていました。出るころには、1000円が安く思えるほどでした。時間があればぜひ寄ってみましょう。

藤崎古墳 ふじさきこふん

来島海峡大橋を自転車で渡るために大三島から一旦今治市内のサイクルターミナルへと戻りました。そこから、来島海峡大橋を自転車で渡って、もう一度、大島へ向かいます。来島海峡大橋サイクリング、最高でした。人気があるのを実感しました。

ということで、藤崎古墳ですが、これがまた場所がわかりません。地図が示す場所を行ったり来たりして見つけたのが、小山に立てられた墓地。これも古墳あるあるです。近づいてみると、案内板が立っていました。

墓地の裏側に回ると、墳丘の様子がなんとなくわかります。藤崎古墳は6世紀から7世紀頃に造られた円墳で、直径は約30mと考えられています。直径30mというと今まで見てきた円墳よりかなり大きい円墳です。島内の古墳にしては珍しい埴輪なども出土していることから、かなりの有力者の古墳であることが想定されます。

まとめ

2日に渡り、愛媛県今治市の古墳を探索しました。朝倉地域にある野々瀬古墳群や多伎宮古墳群などは、多くの古墳が残されており、まさに探索しながらの古墳巡りが味わえます。島めぐりの古墳探索も、かなり疲れましたが、途中、村上水軍ミュージアムや大山祇神社など、歴史を堪能できるサイクリングでした。

今治市には、他にも現存する古墳がたくさんあります。近いうちに、もう一度訪れたいと思います。

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