【全国古墳探訪】小野妹子の陵墓を訪ねて小野妹子について考えてみた件

全国古墳探訪

大阪府南河内郡太子町に、遣隋使で有名な小野妹子の陵墓と伝えられている塚があります。

太子町には、聖徳太子陵や敏達天皇陵、用明天皇陵、推古天皇陵、孝徳天皇陵など、6世紀から7世紀の重要な人物の陵墓が集まっています。

小野妹子の陵墓は、延喜式内社・科長神社(しながじんじゃ)の南側の小高い丘の上にあります。

小野妹子の陵墓を訪ねて

科長神社

静かな森の中にある科長神社は、風の神様である級長津彦命と級長津姫命を祀っています。

科長神社のすぐ南側に、小野妹子の陵墓へと続く長い石段があります。脇には「道祖小野妹子墓」と記された石標が立っています。

この辺りも非常に静かです。階段を登った先に、玉垣で円形に囲まれているものが見えてきます。

太子町のHPによると、小野妹子が聖徳太子より本尊の如意輪観音の守護を託され、坊を建て、朝夕に仏前に花を供えたのが、華道家元池坊の起こりで、「華道の祖」として、池坊が小野妹子の陵墓を管理しているそうです。

小野妹子の陵墓は、東西約15m、南北約11m、高さ約3mの楕円形をした円墳です。

木の根で覆われた墳丘が、時の流れを感じさせます。

階段の所にあった説明板には、「太子町が一望できる丘陵上にある円墳」と書かれています。

大失態を犯したのに謎の大出世!

「日本書紀」には、推古天皇15年に、大礼小野臣妹子を隋に送ったことが記されています。大礼とは官位十二階の上から5番目の位です。

小野妹子は、翌年の推古天皇16年に、隋の皇帝煬帝の使者である裴世清を伴って帰国します。

中国の正史である「隋書」にも裴世清が煬帝の使者として倭国へ派遣されたことが608年の出来事として記されています。

裴世清とともに帰国した小野妹子ですが、なんと煬帝から預かった国書を紛失してしまいます。

大事な国書を紛失するなど、大失態もいいところです。

しかも、その理由が「百済でスリにかすめとられた。」というのです。

流罪に処すべきという意見もありましたが、推古天皇は、小野妹子を許し、罪には問いませんでした。

それどころか、裴世清の帰国の際に、再び隋に使者として派遣されています。

帰国後、小野妹子は、冠位十二階の一番上の位の大徳にまで昇進しています。

まさに、異例の大出世というところです。

しかし、そんなことがあるのでしょうか?

小野妹子を隋に送ったのは聖徳太子?

「日本書紀」には記されていませんが、「隋書」には、600年にも倭国が使者を送ってきたことが記されています。

開皇二十年倭王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌遣使詣闕

開皇20年は、600年のことで、「倭王阿毎多利思北孤」が遣いを送ってきたと書かれています。

「阿毎多利思北孤」は、「あまたらしひこ」と解釈されています。

そして、7年後の607年にも「倭王多利思北孤」が遣いを送ってきたと書かれているのです。

「隋書」には、倭王には妻がいると書かれていますので、隋書は、使者を送ってきた倭国の王は確実に男だと認識しています。

しかし、このときの天皇は、女性である推古天皇です。

「日本書紀」には、推古天皇が厩戸豊聡耳太子(聖徳太子)を皇太子に任命し、国政をすべて任せたことが書かれているので、「多利思北孤」は、実質的な倭王である厩戸豊聡耳太子すなわち聖徳太子であるというのが通説です。

「隋書」には「阿毎多利思北孤」と一音一字があてられているので、倭の使いが話したことをそのまま漢字にしたのではないかと思われます。

つまり、「倭の王は誰だ?」と問われて、「倭の王は、アマタラシヒコと言います。」と答えたことになります。

「隋書」には、倭国の使者の名前は記されていませんが、もし、その使者が小野妹子だとしたら、なぜ、「倭の王はアマタラシヒコです。」などと言ったのでしょうか?

抹消された600年の遣隋使

「隋書」の完成は7世紀中頃とされていますので、それよりも後の720年に完成した「日本書紀」の作者たちは、編纂の段階で「隋書」を読んでいたと思われます。

つまり、600年の遣隋使は、意図的に「日本書紀」には記されなかったのです。

「隋書」には、600年の遣隋使の際に、中国の皇帝は、「道理がおかしい!」と政治の仕方を改めさせたと記しています。

「日本書紀」はこれを恥辱だとして600年の遣隋使をなかったことにしたのです。

しかも、「倭王阿毎多利思北孤」なんて書かていますから、なおさら「日本書紀」に掲載できないわけです。

日本書紀の遣隋使の記述は隋書にあわせたもの

隋書 日出處天子致書日没處天子無恙

「隋書」には607年に、使者が持ってきた国書の内容が記されています。

有名な「太陽の昇る東方の天子が太陽の沈む西方の天子へ書を差し上げる。無事でお変わりはないか・・・」という文です。

隋の皇帝の煬帝はこの国書を読んで不機嫌になり、「礼儀をわきまえておらぬ。二度と奏上させることのないように。」と言ったと「隋書」は記しています。

「日本書紀」の記述を信用すると、この国書を差し出したのは小野妹子ということになりますが、もちろん、このことは「日本書紀」には書かれていません。

その後、隋の煬帝は、翌年の608年に裴世清を使者として倭国に派遣します。

「隋書」には、倭国で「小徳阿輩台」が出迎えたとあります。小徳は冠位十二階の2番目の位ですから小野妹子よりも高位の者が出迎えたことになります。ここでも小野妹子は登場しません。

「隋書」では、裴世清と会見した倭国王が、「私は野蛮人で大海の一隅に住んでいて礼儀を知らない。どうか大隋国の新たな教化の方法を教えてほしい。」と言うと、裴世清は、「倭国王は、隋の皇帝の徳を慕って教化に従おうとしているので、皇帝は使者を遣わしてこの国に来させ、ここに教え諭すのです。」と答えたと記しています。

おそらく、倭国王の阿毎多利思北孤は、国書によって煬帝を不機嫌にさせたことを伝え聞いており、これはまずいと思って、裴世清に弁明したのだと思われます。

煬帝が裴世清を派遣した目的は「礼儀を知らない倭国王を教え諭すこと」だったのです。さすがにこれは、「日本書紀」には記すことはできません。

「日本書紀」の記述はどうなっているのかというと、裴世清が読み上げた書は、「皇帝から倭皇にご挨拶を送る。使人の長吏大礼蘇因高らが訪れて、よく意を伝えてくれた・・・。」から始まっています。

「蘇因高」とは、小野妹子は隋で名付けられた小野妹子の名前です。

小野妹子が大事な国書を紛失したというのは偽りで、国書には、裴世清が倭国にやってきた本当の目的が書かれていたため、小野妹子は、それをこっそりと推古天皇に伝えて、対外的にも対内的にも取り繕ったのかもしれません。

とすれば、小野妹子の大ファインプレーで、大出世も納得です。

さらに、裴世清の書には、「時節はようやく暖かで私は無事である。」という、まるで、「隋書」の倭国王の国書に書かれてる「無事でお変わりないか?」という煬帝の返答まで添えられています。

まるで、「隋書」を読んで、その記述に合うように作文したような感じです。

旧唐書「日本国は倭国の別種なり」

10世紀中頃に完成したとされる中国の正史「旧唐書」には、「日本国は倭国の別種なり」と書かれています。

「日本書紀」と「隋書」の遣隋使の記述を読むと、ますます、日本国と倭国は別だったのではないかという妄想がはたらきます。

まとめ

大阪府南河内郡太子町の小野妹子の陵墓を訪ねて、小野妹子についていろいろ調べてみました。

小学校で習ったのでよく知っているつもりだった小野妹子でしたが、まだまだ謎がたくさんあるようです。

【参考】

宇治谷孟著「全現代語訳日本書紀」

全訳注藤堂明保・竹田晃・影山輝國「倭国伝」

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