「妻隠(こも)る 矢野の神山露霜に にほひそめたり 散巻惜しも」
万葉集の柿本人麻呂の歌です。この歌に出てくる「矢野の神山」については諸説あり、所在不明とされています。徳島県国府町矢野にある気延山が、「矢野の神山」ではないかという説があります。
ちゃぼたつ
「妻隠る」は、物忌みなどのために妻のこもる屋の意で「屋」と同音を語頭に持つ地名「屋上の山」「矢野の神山」にかかる枕詞である。「物忌み」とは、祭事において神を迎えるために、一定期間飲食や行為を慎み、不浄を避けて心身を清浄に保つことである。妻とは巫女的な役割をした女性のことを示しているのでは?巫女が神を迎えるためにこもる神の山が矢野にある!これは捜査せねばなりませぬ。
鮎喰川東岸から見た気延山
徳島県の徳島市国府町と名西郡石井町の境にある標高212.3mの気延山です。気延山の東側の国府町矢野には、弥生時代の竪穴式住居跡約100棟が見つかっている矢野遺跡があります。矢野遺跡から見える気延山は、きれいな円錐形をしています。
ちゃぼたつ
この円錐形の気延山をみるたびに、奈良県の大神神社の神奈備である三輪山によく似ているなと思うのだが、私だけだろうか。
存在する古墳は200基以上!
気延山には、約200基余りの古墳が存在しています。
宮谷古墳
気延山南東端の標高約45mの尾根上にあります。全長37.5mの前方後円墳で、築造年代は、3世紀末から4世紀初頭と考えられています。
後円部中央に長さ7.5m×幅4.2mの墓壙を掘り、結晶片岩の割石を用いて全長6m、幅1.2~1.3mの竪穴式石室を築いています。床には粘土を敷き、その上に推定約5.3mの割竹形木棺を安置した跡が残っていました。被葬者は、頭を東に向けて埋葬されていました。
石室内から重圏文鏡、鉄剣、鉄斧、鉄鏃、管玉、ガラス小玉などが出土しました。また、前方部先端からは、三角縁神獣鏡が、墳丘周辺部からは多量の壺形土器が出土しました。
宮谷古墳から出土した三角縁神獣鏡は3面で、内2面には同范鏡が存在します。京都内里古墳と奈良黒塚古墳との同范鏡と、岡山鶴山丸山古墳、大分赤塚古墳との同范鏡です。三角縁神獣鏡は、卑弥呼が魏帝から下賜された鏡であるとも、ヤマト王権が政治的同盟の証として地方の首長に下賜したものであるとも言われています。宮谷古墳の出土状況をみると、重圏文鏡が竪穴式石室内から発見されているのに対して、三角縁神獣鏡は、前方部の先端に無造作に埋められた状況で発見されています。宮谷古墳の被葬者が大切に扱っていたとは思えないのです。
奥谷1号墳
矢野遺跡があった平野部がよく見渡せる標高41mの尾根上に造られています。全長約50mの前方後方墳で、4世紀末の築造と考えられています。
埋葬施設は、未調査のため不明です。ぜひ調査してほしいものです。
墳丘の周りから円筒埴輪や朝顔形埴輪が巡らされていたことがわかっています。
奥谷1号墳は、徳島県では、丹田古墳(前方後円墳とも)、椎ケ丸古墳とともに貴重な前方後方墳です。すぐ近くの尾根には、4世紀初頭に築造された宮谷古墳があります。宮谷古墳からは、割竹形木棺を納めた長大な竪穴式石室や三角縁神獣鏡が発見されており、畿内の前期古墳と似た特徴をもっています。ヤマト政権の勢力拡大とともに盛んに造られた前方後円墳とは別の前方後方墳がなぜここに造られたのでしょうか。近隣の前方後方墳をみると、神戸市の西求女塚古墳(3世紀後半)、処女塚古墳(4世紀前半)、岡山の備前車塚古墳(4世紀)などがあり、いずれも三角縁神獣鏡が出土しています。埋葬主体や副葬品が確認されれば、それらの古墳との関連もわかるかもしれません。
矢野古墳
矢野古墳は、気延山東端の標高24m地点につくられた直径約17.5mの円墳です。6世紀後半から7世紀前半の築造と考えられています。
全長約11.5m、高さ2.8mの両袖式の横穴式石室です。石材には徳島県産の結晶片岩が使用され、棺をおさめる玄室の手前に前室という区画をもつ副室構造をしています。石室の奥の壁には、2mを超える石材を使用し、天井は上に行くほど狭くなる持ち送り構造によってその高さを確保しています。石室の床には平らな河原石が敷き詰められていました。
須恵器・土師器・金環などが出土しています。
矢野古墳は6世紀後半に造られ、7世紀頃まで追葬が行われていたのではないかと推測されています。石室の入り口からは、平安時代の土器も発見されており、後世も祭祀が行われていたようです。また、矢野古墳の近くには、奈良時代の国分寺跡が見つかっていることからも、気延山周辺が古代阿波の中心地であったことは、まちがいないといえます。
天照大神の葬儀が行われた「天岩戸別八倉比売神社」
気延山から尾根続きの杉尾山には、天岩戸別八倉比売神社があります。この神社は、延喜式神名帳にも記された古社で、1185年には、「正一位」という最高の神格を賜っています。
古文書に伝わる天照大神の葬儀
天岩門別八倉比売神社は大日靈女命(おおひるめのみこと)を祭神としています。大日靈女命は天照大神の別名とされ、神社に伝わる古文書に天照大神の葬儀執行の詳細な記録が伝えられていると、境内にある略記に書かれています。そこには、葬儀委員長を大国主神(おおくにぬしのかみ)が務めたという信じられない記述もあります。
奥の院の神陵に眠るのは!天照大神?
天岩門別八倉比売神社は、神社の建つ杉尾山自体を御神体としています。社殿の背後の奥の院は、柄鏡状の前方部をもつ前方後円形の古墳で、後円部頂上に五角形に板石を積み上げた祭壇があります。安永2年(1773年)の古文書には、「気延山々頂より移遷、杉尾山に鎮座して2105年を経ぬ・・・」とあり、もとは気延山々頂に葬られていたことになります。
ちゃぼたつ
天照大神の葬儀が行われた?しかも、葬儀委員長が大国主神?気延山頂から陵墓を移遷して2105年?いやいや、それだと紀元前になってしまう。にわかには信じられないなあ。五角形の祭壇も後世に積み直されたようにも見える。しかしながら、この神秘さ、一見の価値はある。
いざ、気延山山頂へ!
社殿奥に気延山登山道へと抜ける道があります。いざ、気延山山頂へ。登り始めてすぐに、八倉比売神社1号墳、八倉比売神社2号墳がありました。八倉比売神社の略記に、「前方後円型の古墳の左右に2基の陪塚がある。」と書かれていました。これらの古墳がその陪塚なのでしょうか?資料によると、1号墳は、直径約35mの円墳、2号墳は、直径約20mの円墳であるとされています。
気延山山頂
山頂には約20分程で到着しました。山頂には、小祠と石像、句碑が立っていました。石像がみんな向こうを向いています。
ちゃぼたつ
山頂には誰が読んだのか分からないが、「ひみこ、空海、義経の足あとなきか気延山」という句碑があった。祠も含めて、みんな向こうを向いているのは、何か意味があるのか?
神泉湧く!天乃真名井
八倉比売神社略記に「本殿より西北五丁余に五角の天乃真名井がある。元文年間(1736-41)まで十二段の神餞田の泉であった。現在、大泉神として祀っている。」と書かれていたので、そちらの方に降りてみました。
まとめ
ちゃぼたつ
1070年6月28日の太政官符で、八倉比売神の「祈年月次祭は邦国乃大典也」として、奉幣を怠った阿波国司を厳しく叱っている。このことからも、八倉比売神の神格が伺える。気延山山頂に葬られた女性神は、本当に、天照大神なのだろうか?
柿本人麻呂は、矢野の神山に眠る女性を知っていたのだろうか?柿本人麻呂は、他にも意味深な歌を詠んでいる。何かを聞いていたのかもしれない。
矢野遺跡からは、約100棟の弥生時代の竪穴式住居跡が見つかっている。さらに、集落内から、木製の木箱に入れて埋納された高さ97cmの銅鐸が発見されている。この銅鐸の製作年代は、弥生時代後期(1~2世紀)~弥生時代晩期(2世紀~3世紀初頭)と考えられている。
竪穴式住居一棟あたりに5人が住んでいたとして、約5000人。矢野遺跡のすべてが発掘調査されたわけではないので、1万人くらいは暮らしていたのではないかと考える。矢野遺跡がある鮎喰川周辺には、庄・蔵本遺跡など、弥生時代の大集落跡が数多くある。そうなると、気延山周辺には、数万の人々が暮らしていたと考えられなくはない。
気延山周辺には、弥生時代に大きなクニが存在し、天照大神のような強大な力をもつ巫女が祭祀を行いクニを統率していたのかもしれない。残念ながら決定的証拠はない。そう簡単には古代史の謎は解けないものだ。