境内の至る所に残る伝説
境内に神社由緒が書かれた案内板が立っていました。なかなかものすごいことが書かれています。
伊邪那岐尊が阿波峡原で禊をするまでは記紀神話通りですが、そこから、統括だの動向を監視するだの何やらただならぬ様子が書かれています。月読尊は、伊邪那岐尊に派遣されて、東大和紀伊の動向を監視するために大滝山にやってきたというのです。
大滝山からの展望は絶景
大滝山から、香川県側を見ると高松市街その向こうに瀬戸内海が一望できます。屋島もはっきりと見えます。
東側を見ると、吉野川市辺りがよく見えます。
神社由緒には、大滝山の頂、展望のきく所に櫓を設け、瀬戸内海難波及び大和の動向を監視したとありますが、東大和は大和の東ですから、単純に解釈すると大阪(難波)ということになります。しかし、さすがに難波や紀伊までは見えません。木々が生い茂る前は遠くまで見渡せたのかもしれません。讃岐国には、かつて、寒川郡に難波郷がありました。瀬戸内難波は、その難波郷あたりだったかもしれません。
そうなると、大和は倭(やまと)。倭大國魂命がいたところかもしれません。おっと、妄想がとまりません。
空海がお祀りした西照大権現
西照神社は、明治の神仏分離までは西照大権現と称していました。弘仁6年(806年)空海が42歳の時に、大滝山に登った際に、空海の遠祖天忍日命の使いという翁が現れ、頂上にある古塚がその神の神跡であると教えられたと伝えられています。空海は、そこに草庵を構えてその霊を祀りました。その草庵が大滝寺であり、その神が西照大権現であるといわれています。
つまり、西照大権現=天忍日命ということになります。
天忍日命は、大伴氏の祖神とされ、瓊瓊杵尊が天降ったときに、天津久米命とともに先導した神様です。大伴氏の祖であることや天孫降臨時の役割から、軍事を担っていたと考えられます。
神社由緒に書かれていた月読尊の任務っぽい表現や日清日露の際の灯明杉の伝説と天忍日命が軍事を担っていたことと何か関係があるのでしょうか?
空海は、讃岐国多度郡の少領(郡司)であった佐伯直田公の子であるとされています。
第12代景行天皇のときに、日本武尊が熱田神宮に献上した蝦夷が乱暴なので、播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波に住まわせたのが、佐伯部の祖であると日本書紀は伝えています。
この佐伯部を掌握したのが佐伯氏であると言われています。佐伯部の祖は、日本書紀では乱暴者として扱われていますが、おそらく武勇に長けた猛者達だったと思われます。それを掌握した佐伯氏も大伴氏と同じようにヤマト王権で軍事を担った豪族だったに違いありません。
大伴氏と佐伯氏は同族であるという説もありますから、空海が遠祖である天忍日命を西照大権現として祀ったのも納得はできます。
月読尊と海人族
ちなみに、安芸国の佐伯氏は、593年に、神託を受け厳島神社を創建し、神官を務めています。厳島神社といえば、田心姫神(たごりひめ)、湍津姫神(たぎつひめ)、市杵島姫神(いちきしまひめ)の宗像三女神を祀っています。
神社由緒に、月読尊は宗像三神の部族を率いて伊予から阿波に移ったと書かれていました。佐伯氏である空海にかかわりのある西照神社が月読尊を祀っており、同じく佐伯氏が創建した厳島神社は宗像三神を祀っています。その関わりの探ってみましょう。
西照神社の祭神の月読尊を祀る神社は、数多くありますが、もっとも格式が高いと考えられるのが、長崎県壱岐市にある月読神社です。壱岐の月読神社は延喜式神名帳で名神大とされ、特に重要な神社とされています。
壱岐の月読神社も鬱蒼と巨木が茂る森の中に静かに鎮座していました。壱岐といえば、魏志倭人伝においても「南北市糴」と記されているように、海上交通の要所です。おそらく、海人族が支配していたと考えられます。
西照神社由緒の「月読尊が宗像三女神を率いて伊予から阿波に入った」とは、九州地方の海人族の進出を意味しているのではないでしょうか?
ヤマト王権以前に、海人族は、現在の中部地方や関東地方に進出し、それぞれクニを形成していたと考えられます。海洋豪族で、福岡県志賀島を本拠地としていた阿曇氏は、各地に進出しており、長野県の安曇野や静岡県の熱海なども阿曇を語源としているといわれています。日本武尊は、それらの国を征討したのです。
日本書紀は、播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波は、日本武尊によって連れてこられた蝦夷たちの希望でその地に送られたと伝えています。播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波を選んだのは偶然ではなく、播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の地方豪族として居住していた海神族を頼ったとも考えられます。
西照神社の神社由緒は、ヤマト王権以前の海神族の進出を示しているのかもしれませんね。あくまで、妄想ですが・・・。