【阿波の神社を行く!】全国唯一!倭大國魂神を冠する神社!延喜式内社「倭大國玉倭大國敷神社」

阿波の神社を行く!
 927年に編纂された延喜式神名帳には、朝廷より幣帛を受ける全国の神社2861社(3132座)が記されています。それらの神社は式内社と呼ばれ、927年の時点で確かにその場所に存在していた由緒ある神社です。
 倭大国魂神は、その名の通り、倭の国そのものを表す神様ともいえるでしょう。延喜式神名帳で、倭大国魂神を冠する神社は、「阿波国 美馬郡 倭大國玉神大國敷神社二座」として全国で唯一阿波国のみに記されています。徳島には、その神社ではないかといわれている神社が3社存在しています。
ちゃぼたつ
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倭の国そのものを表す神様を祀る神社が阿波にしかなかったなんて・・・。これは捜査せねばなりませぬ。

倭大国魂神&倭大国敷神について

国魂とは、国または国土を神格化したものという意味で、古来より、為政者は、その土地に鎮座する神とともに国を経営するという考え方があります。第10代崇神天皇は、天照大神と倭大國魂神の二神を大殿に祀っていました。倭大國魂神は、倭の国そのものの神様なのです。

国敷とは、万葉集に「敷」という文字が「治める」という意味に使われていることからも、「国を治める」という意味があります。また、「敷嶋」という言葉、大和の国の枕詞としても使われています。つまり、大国敷神とは、国を治める神を表しています。このことから、大国敷神を大国主命とする説もあります。

 倭大国魂神&大国敷神は、倭の国そのものであり、倭の国を治める神のことです。

ちゃぼたつ
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延喜式神名帳には、淡路国に大和大国魂神を祀る大和大国魂神社がみられ、大和国に日本大国魂大神を祀る大和坐大国魂神社がみられる。いずれも「ヤマトオオクニタマ」と読むが、ヤマトの当て字は、古い順に、「倭」「大和」「日本」となるので、倭大国魂大国敷神社が一番古いということになるのだ。

候補1 倭大國敷神社

まず、徳島県美馬市脇町拝原にある「倭大國敷神社」です。創建年代は不明。主祭神は、倭大國魂命と大國敷命です。

境内の史跡説明板より

 創立年代不詳で、「鎮守さん」と呼ばれる。曽江谷川によって形成された扇状地上に位置する当社は、平安時代の「延喜式」神名帳の美馬郡条にある「倭大國玉大國敷神社二座」に比定される古社で、倭大國魂命と大國敷命を祭神とする。「日本書紀」の第10代崇神天皇紀6年に「天照大神・倭大國魂、二座を天皇の大殿の内にお祀りしたとある。」が「延喜式」で「倭大國魂」を冠する神社は他になく、「倭大國魂」との強い関係性が窺える。当社南に広がる「拝原東遺跡」は、吉野川中流の弥生終末期から古墳時代初頭の鉄器生産遺跡である。(3世紀代)ここから、竪穴式住居7棟をはじめ、住居内から鉄製のヤジリ刃物製作した鍛冶炉跡、鉄器を磨くための砥石、つぼや瓶、皿といった土器も合わせ、約2万点の遺物が出土した。拝原は、忌部族が崇拝した吉野川南岸の種穂山、高越山が拝める場所で、忌部族の居住地であった。吉野川山川町忌部山の麓には、「つむ(錘)は山崎、拝(はい)原車(ばらくるま)それで撚れぬは お手のから」との歌が伝わり、山崎と拝原に忌部の織物・金属技術集団が居たことが予見されてるが、その伝承を裏付ける遺跡と言える。

曽江谷川は、阿讃山脈を源流として吉野川に流れ込んでいます。曽江谷川が形成する扇状地上には、いくつかの古墳が現存しています。かつてはもっとあったとされ、弥生時代の集落遺跡も発見されています。

扇状地に現存する古墳は、いずれも古墳時代後期(6世紀後半)に築造された円墳で、その規模は直径約15m、高さ5mほどです。側壁と天井石を持ち送り、玄室天井部をドーム状に構成する段の塚穴型の横穴式石室を有しています。拝原遺跡からは、6世紀頃の方形の穴を掘って造られた竪穴式住居と堀立柱建物が発見されており、古墳群の被葬者一族との関連が考えられます。

北原古墳
また、西長峰遺跡は、弥生時代中期の竪穴式住居跡26棟と堀立柱建物14棟が見つかっています。さらに、倭大國敷神社の南の拝東遺跡からは、弥生時代後期から古墳時代初期の竪穴式住居7棟と鉄器制作に使用した鍛冶炉跡が見つかっています。
倭大国敷神社南の風景
拝東遺跡で発掘されたのは集落の一部で、発掘場所の東側には大集落が広がっていたのではないかと考えられています。奥に見える山は、伊邪那美命の神陵があるともいわれている高越山です。拝原の地名は、高越山を拝礼する場所であるからその名がついたとの説があります。倭大國敷神社が位置する曽江谷川扇状地は,古くから人々が集落を形成し居住してきた地域なのです。史跡説明板では、忌部氏との関連が述べられていますが、倭大國敷神社を創建したのも忌部氏なのでしょうか?

候補2 倭大國魂神社

次に、美馬市美馬町字東宮ノ上3にある「倭大國魂神社」です。創建年代は不明。主祭神は、倭大国魂命と大己貴命です。小高い丘に築かれた階段を上っていくと、鳥居が見え、脇には「延喜式内社 倭大國魂神社」の石柱が建っています。

境内の史跡説明板より

 由緒は不詳だが、平安時代の「延喜式」神名帳美馬郡条にある「倭大国玉神大国敷神社二座」に比定されている古社で、大国魂命、大己貴命を主祭神とする。その御神像は、高さ一尺ほどの剣を杖きて立つ神人の木像で厨子の背後には、「大島郷倭大国魂神社」の墨書があるという。小笠原氏が崇敬した神社でもあった。「日本書紀」の第十代崇神天皇紀六年に「天照大神・倭大国魂、二神を天皇の大殿の内にお祀りしたとある。」が延喜式で「倭大国魂」を冠とする神社は他になく、「倭大国魂」との強い関係が窺える。境内には、古墳時代後期(六世紀)の三基からなる大国魂古墳群が築かれ、開口する横穴式石室(全長四・六m、高さ二・二m)を持つ一基が倭大国魂古墳で段の塚穴型石室の中でも最も古い特徴を持つと考えられている。神社北側の吉水には「吉水遺跡」があり、弥生後期の住居七軒とと東西九間・南北三間の堀立柱建物跡が発掘されている。今後の周辺地域の発掘によって、「倭大国魂神社」を成立させた集団の様子が明らかになってくるであろう。

説明板にある古墳を探ししてみると、先ほどの鳥居の近くにありました。南側に向けて、横穴式石室が開口していました。横穴式石室の構造は、候補1の倭大國敷神社の周辺にある古墳と同じく、側壁と天井石を持ち送り、玄室天井部をドーム状に構成する段の塚穴型の横穴式石室を有しています。築造年代も6世紀と考えられています。

倭大國魂神社には、興味深い説があります。この神社を訪れた元駐イスラエル大使のエリ・コーエン氏が、倭大國魂神社の神紋を見て、「これは、メノラーに似ている。」と言ったそうです。メノラーとは、古代イスラエルで用いられた燭台のことで、現在のイスラエルでも国章として用いられています。

倭大國魂神社の神紋は、梶の葉紋です。「古語拾遺」によると、「天富命が天日鷲命の子孫を率いて、阿波国に出かけて、穀(かじ=梶)・麻の種を植えた。」と記され、立梶の葉紋は、天日鷲命を始祖とする阿波忌部氏の家紋にもなっています。

ちゃぼたつ
ちゃぼたつ

梶の葉を紋にしているところから、倭大國魂神社と阿波忌部氏と間につながりがあるのは間違いない。それにしても、古代イスラエルとは・・・。葉っぱの葉脈模様がメノーラに似ている・・・。確かに似ている。偶然のような気もするが・・・。

【阿波の神社を行く!】「磐坂神明神社」古代イスラエルの礼拝所って・・・。
徳島県に古代イスラエルの礼拝所とそっくりだといわれる磐境神明神社があります。社殿もなく、自然石を積み上げてつくられたその磐境には多くの秘密が隠されています。

候補3 医家神社

最後の候補地は、三好市池田町字マチ2286にある「医家(いげ)神社」です。

祭神は大国主命と少彦名命の二神です。日本書紀に大国主命の別名が大国玉神とあることから倭大國魂神を大国主命と同一視していると考えると、大國敷神は少彦名命ということになります。

大国主命と少彦名命は、ともに協力して葦原中つ国をつくった神です。大国主命を葦原の中つ国を造った国魂神とし、少彦名命を葦原の中つ国の実質経営者の国敷神と考えれば、一応納得できます。

大国主命は、因幡の白兎に治療法をおしえてやったことから医療、薬の神としても祀られることがあります。また、伊予国風土記逸文に、大国主命と少彦名命が道後温泉を訪れて病気が治ったという神話もあります。ゆえにこの神社は医家神社と呼ばれるようになったとされています。

医家神社の旧社地は、医家神社から南に約2kmほどの山の尾根にある磐坂神社であるといわれています。徳島県神社誌によると、

往古には磐坂大権現と称した。磐坂日子神を奉りし故に名付奉りし御名なりと。後、祭神山を下り給う。此の宮今の医家神社なりという。
と書かれています。

島根県松江市八雲町に、磐坂日子命を祭神とする式内社磐坂神社があります。磐坂日子命は、出雲国風土記では、素戔嗚命の子でその地方の開拓神とされています。磐坂日子命は、記紀には登場しない出雲国風土記にしか書かれていない神です。

ちゃぼたつ
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出雲国から遠く離れた阿波国の山深い地に、なぜ出雲国固有の神が祀られているのか?こちらの方が気になる。

いずれが延喜式神名帳に記された倭大國玉神大國敷神社なのか?

ちゃぼたつ
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延喜式神名帳に記された「阿波国 美馬郡 倭大國玉神倭大國敷神社」は3社のうちのどれかを推理してみた。

医家神社は、江戸時代の歴史書「阿府志」に

倭大国玉大国敷神社二座俗に医家大明神と号す。

とあることから候補となったと考えられます。「阿府志」の著者は,祭神が大国主命と少彦名命であることを根拠にそう考えたのでしょう。しかし、約100年後に編纂された「阿波志」には、医家大明神の記述さえないのです。そもそも二座とあるのに一柱の神様にしてしまうのに無理があります。「阿波志」の著者は「阿府志」の記述に大きな疑問を持っていたのでしょう。

「阿波志」の三好郡祠廟の項に、

大国敷祠 延喜式小祠と為すが詳らかならず或は曰く池田村池神是也と,按ずるに延喜式大国玉神を配食す 今別ち置く疑うべし・・・

とあります。つまり、

大国敷祠というのがあって延喜式内社というが詳しくは分からない。池田村にある池神がそうじゃないのという説もある。思うに,延喜式には大国玉神を一緒に祀っていたというから,今分けて祀るのは変だ。

と言っているのです。

注目すべきは、「池田村池神是也」という記述です。「阿波志」に記されている池田村の祠は、牛頭祠(現丸山神社)、王子祠(現皇子神社)、三所祠(所在不明)、杉尾祠(現杉尾祠)、諏訪祠(現諏訪神社)霹靂祠(現霹靂神社)、八幡神社(現八幡神社)の七社が記載されいます。医家神社だけでなく磐坂神社も記されていないのです。おそらく、所在不明の三所祠が医家大明神で、その名からしていくつかの神様が合祀されていたのではないかと考えます。医家大明神は、地神である池神様と医療の神でもある大国主命が合祀されたことで、イケに「医家」の字をあてて呼ぶようになったのではないでしょうか。

医家神社の旧社地とする磐坂神社は,その創建を天文年間(1532年-1555年)としています。その祭神が山を下りて祀られるようになって、医家神社と呼ばれるようになったとすれば、そもそも平安時代に記されている倭大国玉大国敷神社ではないといえます。

ちゃぼたつ
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以上のことからして、池田町の医家神社は、延喜式神名帳に記された倭大国玉大国敷神社ではなく、美馬町の倭大国魂神社と脇町の倭大国敷神社のいずれかではないかと考える。

日本書紀から倭大国魂神を考えてみる

日本書紀は、第10代崇神天皇のときに、疫病が流行り、百姓は流離し、反逆するものさえ出て、天皇の徳を以ても収められなかったと記しています。

そこで、崇神天皇は、大殿に天照大神と倭大国魂神の二神を祀って祈りました。天照大神は、天皇家の祖神ですから、崇神天皇が祈りをささげるのも当然でしょう。倭大国魂神もヤマトの国そのものの神ですから、国を鎮めるために祈りを捧げたのでしょう。

しかし、二神の神霊をおそれた崇神天皇は、天照大神を豊鍬入姫命に託して大和の笠縫邑に祀り、倭大国魂命を渟名城入姫命に預けて祀らせました。ところが、倭大国魂神の神霊が高すぎたのか渟名城入姫命は髪が抜け体が痩せこけて祀れなくなってしまいます。

そこで、大物主神の神託を受け、大田田根子に大物主神を、市磯長尾市に倭大国魂神を祀らせ、他の神も天つ社、国つ社、神地・神戸を定めて祀ったところ、ようやく疫病が収まり国は鎮まりました。

ちゃぼたつ
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日本書紀の記述を素直に読むと、崇神天皇は倭大国魂神を恐れており、倭大国魂神も天皇家に祀られることを拒んでいるように思える。

神託を授けた大物主神は大国主命と同一神で、倭大国敷神とも同一神であるといえないだろうか?かつて、倭大国敷神が葦原中つ国を治めていたと考えると、倭大国魂神は、葦原中つ国の国魂ということになる。葦原の中つ国は、大国主命が天皇家の祖先に譲った国だ。国譲りは実質的には奪われたとする方が現実的である。

崇神天皇は、国難を倭大国魂神の祟りと考えたのだろう。結局、国難は治まらず、葦原の中つ国を治めていた倭大国敷神(大物主命)を子孫が祀ることで、ようやく国が鎮まったといえる。

阿波で祀られる重要な神々

延喜式神名帳で、倭大国魂神と倭大国敷神の名がつく神社は、「阿波国 美馬郡 倭大國玉倭大國敷神社」と、阿波国にしかありません。

崇神天皇が倭大国魂神を祀らせるときに、神を祀るためにいろいろと準備する神班物者(かみものあかつひと)を命じられたのが、大臣の伊香色雄命です。

延喜式神名帳で、伊香色雄命を祀る神社も「阿波国 麻植郡 伊加加志神社」と、阿波国にしかありません。

崇神天皇の母は、伊香色謎命といい、伊香色雄命の妹で、兄とともに「麻植郡伊加加志神社」で祀られています。さらに、伊香色謎命と伊香色雄命の母は、高屋阿波良姫といいます。

ちゃぼたつ
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高屋阿波良姫は阿波の人じゃないの?

【妄想の阿波古代史】第10代崇神天皇の母である伊香色謎命、そして、多くの物部一族がその祖とした伊香色雄命。この2人は阿波出身なのか?
伊加加志神社には、第9代開化天皇の皇后で、第10代崇神天皇の母である伊加賀色許賣命とその弟の伊加賀色許男命が祀られています。伊延喜式神名帳で、伊加加志の名を冠する神社は「阿波国 麻植郡 伊加加志神社」の1社だけです。天皇家と深いかかわりのある伊加加志の名がつく神社が阿波にしかないとは、これは何かあります。

まとめ

ちゃぼたつ
ちゃぼたつ

今回の調査から推理してみると・・・。

延喜式神名帳に倭大国魂命の名がつく神社が阿波にしかないという事実が表していることは、倭と阿波に何らかの関係があるということだ。倭大国魂命と倭大国敷命は、倭の国にとって重要な神である。阿波に倭大国魂命を祀った一族は、どんな集団だったのだろう。そして、崇神天皇が倭大国魂神を恐れていた理由は?ヤマト王権が滅ぼしたクニだからか?そうなると倭はヤマトではないのか?謎は深まるばかり・・・。そう簡単には、古代史の謎は解けないものだ。

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