【妄想の阿波古代史】高天原の所在「阿波国ナリトイフモノ(岡本監輔)」について

明治の初期、高天原阿波説を唱えた人物がいました。

阿波国美馬郡三谷村(現在の徳島県美馬市穴吹町三島三谷)の出身で、幕末から明治時代にかけて活躍した漢学者・教育者の岡本監輔おかもとかんすけ(1839年‐1904年)です。

岡本監輔は、日本人で初めて樺太の最北端に到達した人物でもあります。樺太探検と言えば間宮林蔵(1780年‐1844年)が有名ですが、日本人初の樺太一周探検を成功させたのは岡本監輔です。

それは、単なる探検ではなく、「誰かが行かねばこの島は奪われる!」という信念のもと、「ここが日本の領土である」という実効支配の証拠を作るためでした。樺太の最北端に到達した監輔は、その地に天照大神の仮社と「大日本領」と記した標柱を建てました。

その後、箱館府権判事や開拓使判官として樺太経営を担った監輔ですが、当時の明治政府内での「樺太放棄論(ロシアとの領土交換)」を支持する黒田清隆くろだきよたか(第2代内閣総理大臣)らと対立し、1870年に職を辞しました。

結局、1875年の千島樺太交換条約により、監輔の苦労は水泡となります。その後は、教育の道へと進み、晩年の1894年には、故郷の徳島県尋常中学校の校長も務めています。

1892年刊行の「史談」(広文館出版)という雑誌に「高天原の所在」という特集があります。そこに、高天原阿波説について、1890年に岡本監輔が著した「祖志」からの引用があります。

※原文は漢文なので、AIの力を借りて文意が通るようにしてみましたが、誤訳もあると思います。

原文:国立国会図書館デジタルコレクション「史談(3)」14コマ

「天」というのは「高天原」のことであり、すなわち「皇居」がある場所のことである。思うに、造化三神(天之御中主神・高御産巣日神・神産巣日神)が高天原にいらっしゃるというのは、「太虚(大宇宙)」を指して言っているのである。この太虚は、天も地も日も月も、すべてをその中に包み込んでいる。「皇居」と呼ぶのは、その実体があるわけではない。

上古の時代においては、住まいは一定しておらず、あちこちへ移り変わるものであった。それは、神々の祖先から下の代に至るまでも同様である。歴代の天皇が同じ場所に留まらずに居所を変えられたのは、二尊(伊弉諾尊と伊弉冉尊か?)の神が国を治められた際の御意志ではないだろうか。「日本書紀」の神功皇后紀には、太神(天照大神か?)の託宣として「百伝ももづて」という言葉があるが、これは天皇が頻繁に各地を巡り歩かれたことを言っている。

しかし、それはどこでもいいというわけではなく、常に日の当たる高い場所にあり、穀物や果実が実りやすいところであった。神々を祀る廟は、みな山や丘に建てられた。世の人々はこれらを尊び天になぞらえて、高天原と名付けたのである。

それは、ちょうど中国の人が君主を天子と称し、その住まいを天闢てんびゃくと呼び、朝廷に参内することを朝天ちょうてんと言い、皇族を天潢てんこう、三公を三台さんたい、郎官を列宿れっしゅくと呼ぶのと同じようなものである。 

『弘仁私記』の序文には次のようにある。「天地が分かれた直後、大地は泥が混ざり合ってまだ乾いていなかった。そのため、山を踏んで往来し、その足跡が多く残った。ゆえに耶麻騰やまとというのである。」 また、ある説では、耶麻騰は山に留まり住むことを言うのだという。また別の説では、人々が山に沿って暮らしていたからだともいう。 ゆえに、山戸やまとという。あるいは山外やまとという意味だともいう。これらの説からわかるように、その地は常に南海諸国や、大和、伊勢、常陸といった場所にあった。当時はまだ一箇所だけを指してそう呼んでいたわけではない。 

後世の人々が、どうしてその所在を知ることができようか。後世の人々は、祖先神を尊びすぎるあまり、かえって様々な異説が生まれて混迷し、どれも神秘的で怪しげな話ばかりになってしまった。おそらく当時は、民衆に知識が乏しく、優れた先覚者の並外れた行いを見て「天から降りてきた」とか「地から湧いてきた」と思い込み、それが言い伝えとなったのであろう。これは驚くほどのことではない。

私が考えるに、高天原が南海にあるというのは、おそらく阿波国の吉野川周辺の地域にほかならない。高天原は、「高海(たか・あま)」に通じる。この国は、切り立った山々の傍らにあり、太古の時代には海が内陸深く十里(約40km)ほども入り込んでいた。その左右には平原が広がり、肥沃な土地が多い。人々はここを「高海(たかあま)」あるいは「高浜(たかはま)」と呼んだ。「ハマ」や「アマ」という音は「アメ(天)」に近い。 

そして、神々が伝えた「太諄辞ふとのりと(祝詞)」には、もともと高天原という言葉があった。二尊(伊弉諾尊と伊弉冉命)がその地で勢力を起こし、国造りの基礎とされたのである。天照大神は別の場所で生まれ、後からここに入って統治されたのである。 人々は語り合った。「こここそが、真の高天原である」と。そうしてついに、高天原という名称が定着したのである。 

『阿波国風土記』には、「天の神が山を二つに分けて降ろした。その大きい方は阿波に落ち、それを『天之諄辞山あめののりとやま』と呼び、その破片は大和に落ち、それを『天香久山あまのかぐやま』と呼ぶ」と記されている。「諄辞山のりとやま」とは、おそらく美馬郡にある「祖山そやま」のことである。その山の麓には忌部氏の神々が多く、常に尊い太諄辞ふとのりとを唱えていた。ここが大和の香久山の本源であるため、「祖山そやま」と呼ぶのである。実は、神々はまずこの山の中に現れ、その次に大和へ赴き、香久山に依拠して四方を統治したのである。 

祖山や一宇山(つるぎ町周辺の山々か?)は、山々が重なり合い険しく、その奥深さは測り知れない。そこには神々の社が非常に多い。一宇山は伊弉諾尊を主神としている。また、影久かげひさ里には大宮天一神祠があり、法正ほうしょう里には天石門祠、峰切みねきり里には白山祠がある。その他、吉良や宮内といった場所にも、山神祠、鎮守祠、八幡祠、松尾祠、杉尾祠、星神祠、竃神祠、竜神祠、牛頭天王祠、午王祠、王子祠、三社祠、五社祠といったやしろが数えきれないほど存在している。 

やしろの傍らには墳塚ふんちょうがいくつも並んでいる。八幡神については知られているが、それ以外が一体どのような神なのか、詳細は不明である。八幡神についても、実際には他の神々と入り混じって区別がつかなくなっていることが多い。 私見であるが、天一神や星の社は天御中主神を、山霊は大山祇神を、竃の社は火の神を、午王の社は素戔嗚尊を祭っているのである。 

あのような山奥の僻地でありながら、ただ山河の景色は類まれなほど美しく、古くからの純朴な民が住んでいる。そこにこれほど多くの社があるということは、天の神々がこの地で活動を始めた証拠が極めて多く、その歴史が非常に長いということを示しているのである。 

みな消え去ってしまい、今では伝承も途絶えてしまった。しかしながら、法正にある天石窟、吉良の神明祠、八百万神の社、宮内の神明山などは、その跡がはっきりと残っている。今日、誰もがその目で確かめることができ、隠しようのない事実として存在している。これらは、もとより他の場所が及ぶところではない。 

平田篤胤は、高天原とは北辰ほくしん(北極星、あるいは宇宙の根源)のことであると言っている。「天原(あまはら)」とは、天にある太陽を指す言葉である。太陽の内部は清らかな空間(空虚)であり、そこに天つ神がいらっしゃる。ゆえに「日の原」ともいう。天の安河(あめのやすのかわ)なども、この場所にあるとされる。また、天原とは天日(太陽)のことである。日の国の内部は空虚な空間であり、そこに天津神が住まわれているため、そこを原という。天安河なども、この天日の中に存在することになる。高天原を地上のどこかの国のことだとする説があるが、これは推測にすぎない。到底、信じるに足りないものであるとも言っている。

もっとも、神が神であるゆえんは、もともと人間の知恵が及ぶところではない。したがって、人間の理屈で議論し尽くせない領域として、そのままにしておくのも一つの態度であろう。

天地の清らかで明るい気(清明之気)は、常に万物の本体であり、あらゆるものに通じている。人間の精神や思想が、天地四方(六合)に広がり、古今を貫いて存在できるのも、この「気」のおかげである。そう考えれば、神の身体が清らかで実体のないもの(清虚)であり、太陽に位置を占めたり、あるいは星々の世界を昇り降りしたりするということも、「決してあり得ないことだ」とは言い切れない。道教の「仙人」は、神に比べれば劣った存在とされるが、それでも人は仙人を不老不死であり、真昼間に空へ飛び去ると称えている。ましてや、尊い太神であればなおさらのことではないか。

ただし、これもまた一つの説であって、古事記や日本書紀などの古史が伝えている内容が、必ずしもこのような理屈に基づいているとは限らないのである。

「一宇山」とは、「法正にある天石窟、吉良の神明祠、八百万神の社、宮内の神明山」などの神社や地名から、一宇村(現在の美馬郡つるぎ町)周辺の山々だと考えられます。そうなると、「祖山そやま及一宇山」と一宇山と並列に書かれている祖山とは、剣山つるぎさんであると思われます。

剣山の西側の山々は祖谷山と呼ばれています。祖谷は「いや」と読みます。「祖」に「イ」の読み方はなく、「祖谷」は難読地名です。

だとすると「祖山」は「イヤマ」とも読め、「イの山」ということになる。「イ」の国…

また、岡本監輔は、祖山つまり剣山を「諄辞山のりとやま」とも呼び、忌部氏が神々を祀り、太諄辞ふとのりとを唱えていたと記しています。

岡本監輔が「宮内の神明山」と記したのは、美馬市穴吹町口山宮内にある磐境神明神社のある神明山のことです。

穴吹町史には、「古代忌部の一族がこの村に住みつき、麻や穀物を作るようになった。豊作を願い神明山に集って祀りを行った。やがて聖域を区別するために石を積んで磐境が築かれた。この一族が宮人の先祖である。」とあります。

【磐坂神明神社】阿波忌部が守り続ける古代イスラエルの礼拝所?
徳島県に古代イスラエルの礼拝所とそっくりだといわれる磐境神明神社があります。社殿もなく、自然石を積み上げてつくられたその磐境には多くの秘密が隠されています。

岡本監輔は、神々が剣山に現れ、周辺地域へ活動を広げ、一部が大和へ進出したとの説を唱えています。つまり、神々が現れ活動を始めた剣山周辺地域を「高天原」と考えていたようです。

岡本監輔の生家近くの美馬市穴吹町三島舞中島には、延喜式内社で唯一「いざなみ」の名を冠する「阿波国美馬郡伊射奈美神社」ではないかとされる伊射奈美神社があります。

【阿波の神社を行く!】国生みの神様、伊邪那美命の名を冠するただ一つの式内社「伊射奈美神社」(徳島県美馬市)
927年に編纂された延喜式神名帳に「阿波国 美馬郡 伊射奈美神社(いざなみのかみのやしろ)」と記された神社があります。伊邪那美命(いざなみのみこと)は、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)とともに、日本の国を創造した国生みの神様です。延喜式神名帳には2861社が記載されていますが、伊邪那美命の名がつく神社は、阿波国美馬郡伊射奈美神社ただ一つです。

イザナミノミコトは、すぐ近くの高越山山頂に葬られたという説もあります。

日本の領土を確かめるために樺太という未開の地に挑み、到達した最北の地に天照大神の社を建てたという岡本監輔ですから、神代の伝説を確かめようと、古里の神社や古墳を歩き廻ったことは容易に想像できます。

そして、古事記をはじめとする様々な古史古伝や神社伝承を研究した結果として導き出した答えが「固非他處所及也(ここより他に及ぶところがない。)」とまで言い切った高天原の所在だったのです。

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