備前国の地方豪族から宮中へ
和気広虫(わけのひろむし)は、天平2年(730年)備前国藤野郡の地方豪族の首長家に生まれます。その3年後の天平5年(733年)に弟の和気清麻呂が生まれます。
姉の和気広虫は、天平16年(744年)、15歳で葛木連戸主(かつらぎのむらじへぬし)の妻となります。
このとき、葛木連戸主は、后妃の世話を司る中宮少進として任官していたので、宮中に女官として勤めていた和気広虫を見初めたのかもしれない。
結婚後、孝謙天皇の女嬬(にょじゅ)として奉仕するようになります。女嬬とは、天皇家に直接雇用された天皇や皇后の世話をする女官のことです。
孝謙天皇は、聖武天皇と藤原不比等の娘の光明子との間に生まれ、天平10年(738年)に女子として唯一の皇太子となり、天平21年(749年)聖武天皇からの譲位を受けて29歳で孝謙天皇として即位します。
和気広虫の孝謙天皇からの信頼は大変厚く、和気広虫も忠心をつくして仕えていたようです。母の光明子の看護のために譲位し上皇となった孝謙が、天平宝字6年(762年)に、淳仁天皇と不和になり出家した際には、和気広虫も孝謙上皇に従って出家しています。
この間に、和気広虫の3歳下の弟和気清麻呂は、兵衛府の一兵士として宮中へ出仕し、10年の間に右兵衛少尉まで出世してます。
おそらく和気清麻呂の出世には、孝謙天皇の信頼の厚かった姉の和気広虫の推挙もあったと思う・・・。
藤原仲麻呂の乱を契機に大出世
何かと政権内で発言力のあった光明皇后が天平宝字4年(760年)に亡くなると、孝謙上皇、上皇が寵愛する道鏡と淳仁天皇、太政官の最高権力者である藤原仲麻呂の間に軋轢が生じます。
そしてついに、天平宝字8年(764年)に、都の軍事力を強化しようした藤原仲麻呂に対して、孝謙上皇は、謀反として朝敵に指定し、討伐の勅命を出しました。
和気清麻呂も右兵衛少尉として藤原仲麻呂討伐軍を率いて軍功をあげたようで、戦乱後の論功行賞により、孝謙が重祚した称徳天皇下で、従五位下近衛将監まで昇進しています。
一方で、姉の和気広虫は、藤原仲麻呂の乱で処刑されるべき375人を孝謙を諫めて減刑とさせたり、戦乱で棄児となった子供たち83人を養子とするなど、慈悲深い対応をみせ、神護景雲2年(768年)には、従四位下大尼となっています。
棄児を養子としたのは、夫の葛木連戸主とも伝えられている。いずれにしても、夫婦ともに慈悲深く、周囲からの信任も厚い人物だったようだ。
宇佐八幡宮神託事件で流罪に
藤原仲麻呂の乱後、重祚した称徳天皇は道教を寵愛し、道教は政権内での権力を確立し、神護景雲3年(769年)には、「道教を皇位につけよ。」と宇佐八幡宮の神託があったとの上奏まで出されました。
この神託があったと言い出したのは、当時、大宰府長官として九州に派遣されていた道教の実弟の弓削浄人(ゆげのきよひと)でした。
これ怪しすぎるでしょう・・・。
この宇佐八幡宮の神託を実際に聞いてくるようにと、勅命を受けたのが和気広虫でした。和気広虫は、身体病弱にて遠路は難しいと、弟の和気清麻呂に代行とするように願い出ます。
道教は、和気清麻呂に、大臣の職を約束したり、一族の昇進をちらつかせたりと、懐柔策を練っています。
ますます怪しい・・・。
宇佐八幡宮に派遣された和気清麻呂は、宇佐八幡宮での禰宜の対応に疑念を抱き、「天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ。」という神託を得たと称徳天皇に報告します。
称徳天皇や道鏡が期待する働きをしなかった和気清麻呂は因幡員外介に左遷となります。さらに、別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改姓させられて大隅国に流罪となります。
また、姉の大尼であった和気広虫も別部広虫売として備後国に流罪となりました。
穢麻呂とは罰が子供じみてるような気が・・・。
称徳天皇は、これまでもに自らに反抗した者に、処罰として卑しい名前をつけています。例えば、称徳天皇への呪詛の疑いをかけられた異母妹の不破内親王は、内親王の身分剥奪の上、厨真人厨女(台所の女)に改姓させています。
宇佐八幡宮神託事件にはいろいろな謎があります。
結局事件の決着は、称徳天皇の「妄りに皇位を求めてはならない。」「次期皇位継承者は称徳天皇自らが決める。」という詔でした。
和気清麻呂が持ち帰った神託を虚偽だと判断していたとすれば、道教は、政権のトップの位置にいたのですから、清麻呂はもっと重い処罰を受けていても不思議ではありません。称徳天皇にしても、最初の神託を真実として道教を皇太子にすることもできたはずです。
称徳天皇にすれば信頼の厚い和気清麻呂が期待する神託をもって帰ると思っていたに違いありません。しかし、期待に反する神託だったために、清麻呂を左遷し処罰しましたが、清麻呂の神託自体は信じたものと思われます。
和気清麻呂にしても、独断で称徳天皇にそのような報告をするとは考えにくく、誰かに相談しての行動だと思われます。
清麻呂と広虫の間柄であれば、すくなくとも広虫には相談していたと考えるのが普通です。
ともに出家したり、処罰に対して減刑するように諫めたりと、最も信頼される腹心として称徳天皇に仕えてきた和気広虫にすれば、道教に夢中になっている称徳天皇を見ていられなかったかもしれません。
その後の光仁天皇や桓武天皇の広虫の重用ぶりを見ると、単にその人柄だけで重用されたとは思えないところもあります。
もしかして、和気清麻呂の神託の絵を描いたのは姉の和気広虫・・・。
称徳天皇崩御で復位
宇佐八幡宮神託事件の翌年の神護景雲4年(770年)3月に、称徳天皇は病臥に伏し、8月に崩御します。称徳天皇が崩御すると道教の権威は失墜し、藤原氏の後ろ盾により光仁天皇が即位します。
光仁天皇の即位に伴い、流刑先から都に呼び戻された和気広虫は、従五位下に復位します。和気清麻呂も宝亀2年(771年)に従五位下に復位し、播磨員外介、豊前守を歴任します。
一方の道鏡は、皇位を狙うという反逆罪に等しい罪にもかかわらず、下野国への左遷ですまされています。朝廷の最高幹部を務めた一族や事件のきっかけとなった神託を奏上した弓削浄人も処罰された形跡がありません。
光仁天皇にすれば、道教は皇室転覆をねらった反逆者で、和気清麻呂はそれを防いだ最大の功労者だが・・・。
おそらく宇佐八幡宮神託事件の首謀者は、称徳天皇だったのではないかと思われます。
称徳天皇はどうしても寵愛する道教を天皇にしたかったのでしょう。その証拠に、神託事件の4年前の天平神護元年(765年)に、道教の故郷である河内国の弓削寺を訪れた際に、道教を政権の最高権力者である太政大臣に任じ、このときの行宮を拡張し、由義宮(ゆげのみや)の建設を始めています。
しかし、和気清麻呂の神託は神託として受け入れ、神罰を恐れて道教を皇位に付けることはなかったのではないかと想像できます。
道教は、言われるほど極悪人でなかったのかもしれない・・・。
光仁天皇・桓武天皇の下で再び大出世
称徳天皇は、孝謙天皇ー孝謙上皇ー称徳天皇と21年間にわたって朝廷内で権力を維持し続けました。称徳天皇は生涯独身で子もなく、藤原氏や橘氏が常に皇太子を狙ってているという状況が続いていたと考えられます。
そのため、天平宝勝9年(757年)の橘奈良麻呂の乱や天平宝字(764年)の藤原仲麻呂の乱など大きな政変が起こり、そのたびに称徳天皇は、政敵や皇太子候補を排除してきました。
その結果として、皇太子候補がいなくなり、道教の宇佐八幡宮神託事件がおこるわけですが、これは失敗し、結局称徳天皇は皇太子を決めないまま神護景雲4年(770年)に崩御します。
結局、藤原氏の後ろ盾を得た光仁天皇が宝亀元年(770年)に61歳で即位します。光仁天皇は、白壁王時代に、称徳天皇によって次々と皇子や親王が粛清されるなか、大納言まで昇進しますがこれは、日々酒を飲んで凡庸を装っていたためとされ、難を逃れた結果の昇進だと言われています。
和気清麻呂、広虫の姉弟は、宝亀5年(774年)に和気朝臣姓を賜ります。
天応元年(781年)に光仁天皇の長男の桓武天皇が即位すると、和気清麻呂は、一挙に四階級昇進して従四位下、和気広虫も、三階級昇進して従四位下となりとなります。
その後、和気清麻呂は、延暦2年(783年)に摂津大夫に任ぜられ、延暦3年(784年)には長岡京造営の功績で従四位上に昇進します。
延暦4年(785年)に桓武天皇の側近であった藤原種継が長岡京で暗殺されると、清麻呂は桓武天皇に側近として仕え、平安京造営と遷都を進言します。延暦12年(793年)には平安京の造営大夫となり、延暦15年(796年)には従三位まで昇進し、朝廷の最高幹部の公卿にまで昇りつめました。
一方、姉の和気広虫は、延暦4年(785年)従四位上に昇進し、その後、後宮の内侍司の次官に任ぜられます。また、平安京に新居を造るために稲を賜った15人の女王・女官のうちの一人となり、亡くなる前には正四位上まで昇進しました。
最後まで信頼し合っていた姉弟
姉弟とも時の天皇の厚い信任を受け、光仁天皇は、和気広虫のことを「他人の過ちを語るのを聞いたことがない。」と称賛し、桓武天皇は、地方豪族出身ながら実務に長けた和気清麻呂を重用し続けました。
姉弟で財産を共有し、その仲の良さは、当時の人からも称賛を受けていました。延暦18年(799年)の正月に、和気広虫が70歳で亡くなると、その後を追うように翌月の二月、和気清麻呂が67歳で亡くなっています。