【神社を行く!】嵐のCMで超メジャー級に!絶景だけじゃない!「宮地嶽神社」(福岡県)

全国神社探訪

急な階段を登りきって、振り返った時に見える景色は、夕日が見えなくても、思わず、「うわぁ!」と声をあげてしまいます。

福岡県福津市にある宮地嶽(みやじだけ)神社は、毎年、2月と10月に2回だけ海へと続く一直線の参道の先に、夕日が沈む光景は「光の道」として有名で、嵐が出演した某航空会社のCMでも話題となりました。

大注連縄は圧巻!

いくつもの鳥居をくぐって進むと、立派な楼門が建っています。その楼門の間から拝殿にかかる立派な注連縄がちらっと見えます。

宮地嶽神社の拝殿にかかる注連縄の重さは約3トンもあります。訪れたときには、年に一度の架け替えが終わってすぐだったようで職人さんが形を整えていました。奥には、神奈備である宮地山が見えます。宮地嶽神社には、大注連縄以外にも、直径2.2mの大太鼓や重さ450㎏の大鈴があります。

それにしても立派な注連縄です。島根県の出雲大社の注連縄も相当大きかったような気が・・・。そこで、全国の神社にかかる注連縄の大きさを調べてみました。

第1位 茨城県常陸国出雲大社拝殿「長さ16m、重さ6トン」
第2位 島根県出雲大社神楽殿「長さ13m、重さ5.2トン」
第3位 福岡県宮地嶽神社拝殿「長さ11m、重さ3トン」

日本最大級の横穴式石室!

宮地嶽神社の見どころは、もうひとつあります。宮地嶽神社の奥には、「奥之宮八社」と呼ばれる8つの社があります。

七福神社、稲荷神社、不動神社、万地蔵尊、濡髪大明神、淡島神社、三宝荒神、薬師神社を巡ることができます。そのうちの不動神社の不動明王は、巨大な石で造られた横穴式石室の中に鎮座しています。

不動神社の賽銭箱の奥に巨石で造られた横穴式石室があり、その奥に不動尊が祀られています。横穴式石室の全長は23mもあります。巨石を使った横穴式石室といえば、歴史の教科書にも登場する奈良県の石舞台古墳があります。石舞台古墳とどっちが大きいのだろうと思い、調べてみました。

第1位 奈良県 見瀬丸山古墳 全長28.4m
第2位 福岡県 宮地嶽神社古墳 全長23m
第3位 奈良県 石舞台古墳 全長19.1m

奈良県の見瀬丸山古墳は、第29代欽明天皇が被葬者として推定されています。石舞台古墳の被葬者は蘇我入鹿ではないかといわれています。宮地嶽神社の被葬者が、この地域で、絶大な権力をもっていたことが想像できます。

豪華な副葬品の数々

宮地嶽神社の被葬者の権力を物語るものは副葬品を見てもわかります。古墳内部からは、古墳内部からは、三百数十点余りの宝物が出土しました。瑠璃壺(ガラス製の壺)や黄金の鐙、黄金の天冠、特大金銅装頭椎大刀など豪華絢爛な副葬品で、20点が国宝に指定されています。中でも、金銅装頭椎大刀の長さは3.2mもあります。3.2mもありますから、実用されたものではなく、被葬者のために、特別につくられたものだと思われます。

横穴式石室に使われた石材は、5mから6mに切り出された玄武岩で、宮地嶽神社の参道の先に見える相島から切り出されたものだそうです。相島には、同じ玄武岩で造られた254基もの積石塚古墳があります。積石塚古墳の源流は朝鮮半島であると言われています。宮地嶽神社の参道は、明らかに相島を意識して定められています。古墳を構成する巨石が、この参道を運ばれてきたと思うと光の道の神秘さがさらにまします。

祭神、神功皇后とは?

神社由緒によると、宮地嶽神社の創建は約1600年前で、祭神は神功皇后です。第14代仲哀天皇の妃である神功皇后が、三韓に向かう前に、宮地嶽山頂より大海原を臨んで祭壇を設け、「天命を奉じてかの地に渡らん。希くば開運を垂れ給え」と祈願し船出したという。その後、神功皇后の功績をたたえ、主祭神として奉斎し、随従の勝村・勝頼大神を併せ「宮地嶽三柱大神」として祀ったのがはじまりといわれています。

神功皇后は、夫である仲哀天皇の熊襲征伐に同行し、橿日宮(現在の福岡県香椎宮)に滞在していました。そのとき、神功皇后が神かがり、「海の向こうの新羅を攻めれば熊襲も従うであろう。という神託を受けました。しかし、仲哀天皇はこれを信じることなく熊襲を攻めたものの失敗し、病気で亡くなります。神功皇后は、天皇が神のお告げに従わなかったために亡くなったと思い、新羅出兵を決意します。これは、日本書紀の記述ですが、古事記はもっと不思議なことを記しています。神の神託に従わなかった天皇に、神は天皇の死をほのめかす神託を残します。天皇は、大臣の武内宿禰の勧めでしぶしぶ琴を弾きますが、その最中に眠るように亡くなります。

福岡県香椎宮にある仲哀天皇橿日宮跡

その後、身重でありがら、神託に従って新羅攻めに成功した神功皇后は、凱旋帰国し、出産します。その子が第15代応神天皇です。

宮地嶽古墳の被葬者は阿曇一族か?

宮地嶽古墳横の説明板には次のようなことが書かれています。

相ノ島こそ、海人族・阿曇の聖地です。阿曇の祖は磯良公と申され芸能の祖とも言われています。その末裔には磐井の戦で名を馳せた「つくしの磐井」が居ます。そして宮地嶽古墳には阿曇の人々に繋がる九州王朝の長が祀られています。

阿曇氏の発祥は、福岡県福岡市東区志賀島の志賀海神社一帯とされ、九州北部の海人族の長であったといわれています。磯良公は、志賀海神社に、神功皇后が三韓へ出兵する際に、無事凱旋できるように阿曇磯良丸を通じて祈願し、七日七夜のお神楽を奏されたという伝説が伝わっています。また、日本書紀には、応神天皇3年に阿曇連の先祖大浜宿禰を海人の宰(みこもち)としたことが記されています。大浜宿禰の父は勝海宿禰といいます。神功皇后に随従した勝村・勝頼大神の名を連想させます。

福岡県志賀海神社

日本書紀の一説では、神功皇后に神がかりした神の名を「表筒雄・仲筒雄・底筒雄」と伝えています。阿曇氏の発祥の地である志賀海神社の祭神は、「底津綿津見神・中津綿津見神・表津綿津見神」で、同一神と考えられます。

3世紀後半から4世紀にかけて、北部九州を本拠地としていた阿曇氏は、海人族として朝鮮半島に進出し、交易を行っていたであろうと推察されます。三国志や後漢書などの記述を見ると、朝鮮半島の南端の地域は、倭の領域だったことが記されています。倭国は百済と友好関係を結び、新羅や高句麗と再三再四、朝鮮半島で戦っています。

勝手に妄想すると・・・

阿曇氏にすれば、朝鮮半島での小競り合いが多くなると、気になるのが背後の南部九州熊襲の存在です。熊襲を牽制するために、ヤマト王権に援護を求めたのではないでしょうか。ヤマト王権としても、鉄資源の確保のために、北部九州は要の地です。仲哀天皇も軍を送り、香椎宮に陣をおきます。阿曇氏は、熊襲征伐とともに朝鮮半島への出兵を進言しますが、仲哀天皇は承諾しません。そこで、神功皇后や重臣の武内宿禰に進言したのでしょう。神功皇后の母は、新羅王子天之日矛の子孫なので、朝鮮半島とのつながりも深かったと考えられます。仲哀天皇には、神功皇后を皇后にする前に、別の女性を妃としており、麛坂王(かごさかのみこ)忍熊王(おしくまのみこ)という皇子がいました。阿曇氏は、身ごもっていた神功皇后に、お腹の子を天皇にするための援助をもちかけたのかもしれません。実際に、熊襲・朝鮮半島を征討した後、麛坂王・忍熊王を圧倒的な兵力で倒し、神功皇后の子は第15代応神天皇となります。阿曇氏の大浜宿禰が応神天皇に仕えていたことも、阿曇氏が関わっていたことを示しています。宮地嶽神社に、神功皇后を祀ったのは、おそらく阿曇氏でしょう。その後の阿曇氏は、海人族を統率する軍事力として、ヤマト王権の全国支配とともに、勢力を広げていったと考えられます。

その後、阿曇氏は、第33代推古天皇に、大臣蘇我馬子が葛城県の下賜を願い出たときの使者として阿曇連が登場します。阿曇氏は政治的には蘇我氏と近かったといえます。宮地嶽古墳の巨大な横穴式石室が築造された時期を6世紀から7世紀と推察すると、ちょうどこの時期になります。同じく巨大な横穴式石室の石舞台古墳は蘇我馬子の墓という説もあります。阿曇氏と蘇我氏のつながりを巨大な横穴式石室が示しているのかもしれません。

まとめ

宮地嶽神社は、見どころ満載で、いろいろな妄想をかきたてられます。いつか、参道の先に沈む夕日も見てみたいと思いますが、ものすごい人になるそうです。

阿曇氏や神功皇后の伝説を探るために、志賀海神社や香椎宮まで足をのばしてみるのもいいかもしれません。

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