【阿波の武将】「鎌倉殿の13人」で源平合戦の一の矢を放った武将は、阿波守護をしていた!

阿波の武将を追う!

NHK大河ドラマ「鎌倉殿13人」の第4回放送で、北条氏が伊豆国目代山木兼隆後見の堤信遠の館を攻めたときに、一の矢を放ち源平合戦の口火を切ったのが佐々木経高です。佐々木経高は阿波守護をしていた時期があります。

ちゃぼたつ
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なに!阿波守護ですと・・・。これは、捜査せねばなりませぬ。

佐々木経高の出自は?

 佐々木経高は、近江国佐々木庄の領主である佐々木秀義の次男として生まれました。佐々木秀義は、「鎌倉殿の13人」では、歯の抜けた好々爺としてユーモラスに描かれていました。

佐々木秀義までの系図                                      第59代宇多天皇(887年即位)                                               敦実親王(あつみしんのう)※宇多天皇の第8皇子                                  源雅信(みなもとのまさざね)※敦実親王の三男                        源扶義(みなもとのすけのり)※源雅信の四男                                    源成頼(みなもとなりより)※源扶義の長男 近江佐々木庄に居住                                       佐々木義経(ささきのりつね)※源成頼の子                                               佐々木経方(ささきつねかた)※佐々木義経の長男                                  佐々木為俊(ささきためとし)※佐々木経方の長男 佐々木季定とも                  佐々木秀義(ささきひでよし)※佐々木為俊の子                               
ちゃぼたつ
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なるほど、佐々木氏は、宇多源氏の流れで、平安時代の中期に、近江国佐々木庄に居住した源成頼を祖としているのか。佐々木庄に居住したから佐々木姓を名乗ったわけだな。佐々木秀義は、源頼朝の祖父の源為義(みなもとためよし)の娘を妻としていたというから、地元では、けっこうな有力豪族だったのだろう。

平治の乱に敗れ関東へ!

1159年の平治の乱では、佐々木秀義は、源頼朝の父の源義朝に従って戦うも平氏に敗れ、定綱、盛綱、経高、高綱の四人の息子とともに、奥州へ逃れようとします。その途中で、相模国渋谷庄を本拠地とする渋谷重国の館に身を寄せることになります。渋谷重国は、平治の乱では源義朝の軍に参加していたので、その縁もあったのでしょう。佐々木秀義は、四人の息子たちとともに、1180年、源頼朝の挙兵に参加しますが、石橋山の戦いで大敗を喫します。かろうじて渋谷重国の館に逃げ帰ります。このとき、渋谷重国は、平氏への恩義から平氏側についていましたが、平氏側の大庭景親の命に背いて佐々木四兄弟を匿ったといわれています。

ちゃぼたつ
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渋谷重国、なかなか男気のある武将だな。

源平合戦での武功から阿波守護に!

佐々木四兄弟は、源頼朝の信頼を得て、その後の源平合戦で大活躍します。1185年に壇ノ浦の戦いで、源氏が勝利すると、平氏討伐の恩賞として、四兄弟は、諸国の守護に任ぜられます。佐々木経高は、淡路・阿波・土佐の3国の守護に任命されました。また、頼朝の側近として、京都警護の職につきました。

阿波守護としての居城は、鳥坂城で、現在の名西郡石井町字石井白鳥付近の鳥坂山に築かれていました。佐々木経高は、京都での重職があるため、阿波守護に任命された折りには、長男の佐々木高重が守護代として鳥坂城を築いたと考えられます。

その後の佐々木経高の行動を吾妻鏡から拾ってみました。

正治2年(1200年)77日                                             六波羅探題から佐々木経高は京都警備の一員なのに、京都の住宅を荒らしている。淡路守護としても国司の命令を聞かずに国衙の年貢を横取りしている。そのうえ、淡路・阿波・土佐の軍隊を京都に呼び寄せた。後鳥羽上皇がとても怒っていると手紙が届く。                         
2年(1200年)82日                                           佐々木経高は、淡路・阿波・土佐の守護職を解任される。
建仁元年(1201年)56日                                             佐々木経高が息子の佐々木高重を使って嘆願書を出し、許されるも領地は返還されず。
建仁元年(1201年)710日                                             豊島右馬允朝経を土佐守護に任命する。佐々木経高のあと。
建仁元年(1201年)123日                                             京都から将軍の許しを得た礼を述べるために、息子の佐々木高重とともに鎌倉に来ていた佐々木経高が、京都へ帰るために将軍頼家に挨拶に来た。頼家は取り上げた領地の一か所を返すと話した。北条泰時は、父の北条義時が、許してやるならすべての領地を返してやるべきだと言っていると話した。
ちゃぼたつ
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源頼朝の死後、京都で不穏な動きを見せた佐々木経高は、鎌倉幕府より守護職を解任される。その後、幕府の重鎮として活躍していた兄弟の嘆願もあって、淡路と阿波の守護に復権する。北条義時が第2代将軍源頼家の裁定に異議を唱えているのも面白い。

承久の変では、後鳥羽上皇軍の参謀に!

1221年に、後鳥羽上皇が、北条義時討伐の院宣を発すると、後鳥羽上皇軍として、京都周辺の争いを鎮圧などの役割を果たしていた佐々木経高は、参謀として院において、後鳥羽上皇とともに合戦の指揮を執ります。

源頼朝の死後、執権北条氏をはじめとするいわゆる鎌倉幕府との溝は、修復できないほど大きなものになっていたのでしょう。

承久の変では、西国武士や鎌倉幕府に失脚させられた御家人たちが後鳥羽上皇側につきます。しかし、北条義時は先手を打って、京都へ兵を送ります。宇治川で迎え撃った佐々木経高の息子の佐々木高重が戦死、幕府軍に京都に一揆に攻め込まれた佐々木経高は自害します。

その後の阿波はどうなった?

鳥坂城は、承久の変の後、佐々木経高に代わって鎌倉幕府から阿波守護に任ぜられた信濃守護の小笠原長清に攻められ落城します。城を守っていた佐々木経高の次男の佐々木高兼は一族や平岡利清ら重臣らと城を捨てて、名西郡神山町鬼籠野村へ逃れます。佐々木高兼は、一族と家臣が鬼籠野の地で百姓となって住むことを条件に、弓を折って自刃して果てます。鬼籠野地区には、この伝説を裏付けるように「弓折」の地名が残っています。

まとめ

ちゃぼたつ
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佐々木経高は、鎌倉幕府黎明期の武将で、その生い立ちや活躍ぶりから武勇と忠義にあふれた人物だったことがうかがえる。知力と謀略で源頼朝の死後の鎌倉幕府の体制を強固にしていった北条義時とは、そりが合わないのもうなずける。平氏打倒をめざして源頼朝に従い挙兵した二人ですが、その後の人生は大きく違ったものとなった。

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