倭の国そのものを表す神様を祀る神社が阿波にしかなかったなんて・・・。これは捜査せねばなりませぬ。
倭大国魂神&倭大国敷神について
国魂とは、国または国土を神格化したものという意味で、古来より、為政者は、その土地に鎮座する神とともに国を経営するという考え方があります。第10代崇神天皇は、天照大神と倭大國魂神の二神を大殿に祀っていました。倭大國魂神は、倭の国そのものの神様なのです。
国敷とは、万葉集に「敷」という文字が「治める」という意味に使われていることからも、「国を治める」という意味があります。また、「敷嶋」という言葉、大和の国の枕詞としても使われています。つまり、大国敷神とは、国を治める神を表しています。このことから、大国敷神を大国主命とする説もあります。
倭大国魂神&大国敷神は、倭の国そのものであり、倭の国を治める神のことです。
延喜式神名帳には、淡路国に大和大国魂神を祀る大和大国魂神社がみられ、大和国に日本大国魂大神を祀る大和坐大国魂神社がみられる。いずれも「ヤマトオオクニタマ」と読むが、ヤマトの当て字は、古い順に、「倭」「大和」「日本」となるので、倭大国魂大国敷神社が一番古いということになるのだ。
候補1 倭大國敷神社
まず、徳島県美馬市脇町拝原にある「倭大國敷神社」です。創建年代は不明。主祭神は、倭大國魂命と大國敷命です。
境内の史跡説明板より
曽江谷川は、阿讃山脈を源流として吉野川に流れ込んでいます。曽江谷川が形成する扇状地上には、いくつかの古墳が現存しています。かつてはもっとあったとされ、弥生時代の集落遺跡も発見されています。
扇状地に現存する古墳は、いずれも古墳時代後期(6世紀後半)に築造された円墳で、その規模は直径約15m、高さ5mほどです。側壁と天井石を持ち送り、玄室天井部をドーム状に構成する段の塚穴型の横穴式石室を有しています。拝原遺跡からは、6世紀頃の方形の穴を掘って造られた竪穴式住居と堀立柱建物が発見されており、古墳群の被葬者一族との関連が考えられます。
候補2 倭大國魂神社
次に、美馬市美馬町字東宮ノ上3にある「倭大國魂神社」です。創建年代は不明。主祭神は、倭大国魂命と大己貴命です。小高い丘に築かれた階段を上っていくと、鳥居が見え、脇には「延喜式内社 倭大國魂神社」の石柱が建っています。
境内の史跡説明板より
説明板にある古墳を探ししてみると、先ほどの鳥居の近くにありました。南側に向けて、横穴式石室が開口していました。横穴式石室の構造は、候補1の倭大國敷神社の周辺にある古墳と同じく、側壁と天井石を持ち送り、玄室天井部をドーム状に構成する段の塚穴型の横穴式石室を有しています。築造年代も6世紀と考えられています。
倭大國魂神社には、興味深い説があります。この神社を訪れた元駐イスラエル大使のエリ・コーエン氏が、倭大國魂神社の神紋を見て、「これは、メノラーに似ている。」と言ったそうです。メノラーとは、古代イスラエルで用いられた燭台のことで、現在のイスラエルでも国章として用いられています。
倭大國魂神社の神紋は、梶の葉紋です。「古語拾遺」によると、「天富命が天日鷲命の子孫を率いて、阿波国に出かけて、穀(かじ=梶)・麻の種を植えた。」と記され、立梶の葉紋は、天日鷲命を始祖とする阿波忌部氏の家紋にもなっています。
梶の葉を紋にしているところから、倭大國魂神社と阿波忌部氏と間につながりがあるのは間違いない。それにしても、古代イスラエルとは・・・。葉っぱの葉脈模様がメノーラに似ている・・・。確かに似ている。偶然のような気もするが・・・。
候補3 医家神社
最後の候補地は、三好市池田町字マチ2286にある「医家(いげ)神社」です。
祭神は大国主命と少彦名命の二神です。日本書紀に大国主命の別名が大国玉神とあることから倭大國魂神を大国主命と同一視していると考えると、大國敷神は少彦名命ということになります。
大国主命と少彦名命は、ともに協力して葦原中つ国をつくった神です。大国主命を葦原の中つ国を造った国魂神とし、少彦名命を葦原の中つ国の実質経営者の国敷神と考えれば、一応納得できます。
大国主命は、因幡の白兎に治療法をおしえてやったことから医療、薬の神としても祀られることがあります。また、伊予国風土記逸文に、大国主命と少彦名命が道後温泉を訪れて病気が治ったという神話もあります。ゆえにこの神社は医家神社と呼ばれるようになったとされています。
医家神社の旧社地は、医家神社から南に約2kmほどの山の尾根にある磐坂神社であるといわれています。徳島県神社誌によると、
島根県松江市八雲町に、磐坂日子命を祭神とする式内社磐坂神社があります。磐坂日子命は、出雲国風土記では、素戔嗚命の子でその地方の開拓神とされています。磐坂日子命は、記紀には登場しない出雲国風土記にしか書かれていない神です。
出雲国から遠く離れた阿波国の山深い地に、なぜ出雲国固有の神が祀られているのか?こちらの方が気になる。
いずれが延喜式神名帳に記された倭大國玉神大國敷神社なのか?
延喜式神名帳に記された「阿波国 美馬郡 倭大國玉神倭大國敷神社」は3社のうちのどれかを推理してみた。
医家神社は、江戸時代の歴史書「阿府志」に
とあることから候補となったと考えられます。「阿府志」の著者は,祭神が大国主命と少彦名命であることを根拠にそう考えたのでしょう。しかし、約100年後に編纂された「阿波志」には、医家大明神の記述さえないのです。そもそも二座とあるのに一柱の神様にしてしまうのに無理があります。「阿波志」の著者は「阿府志」の記述に大きな疑問を持っていたのでしょう。
「阿波志」の三好郡祠廟の項に、
とあります。つまり、
と言っているのです。
注目すべきは、「池田村池神是也」という記述です。「阿波志」に記されている池田村の祠は、牛頭祠(現丸山神社)、王子祠(現皇子神社)、三所祠(所在不明)、杉尾祠(現杉尾祠)、諏訪祠(現諏訪神社)霹靂祠(現霹靂神社)、八幡神社(現八幡神社)の七社が記載されいます。医家神社だけでなく磐坂神社も記されていないのです。おそらく、所在不明の三所祠が医家大明神で、その名からしていくつかの神様が合祀されていたのではないかと考えます。医家大明神は、地神である池神様と医療の神でもある大国主命が合祀されたことで、イケに「医家」の字をあてて呼ぶようになったのではないでしょうか。
医家神社の旧社地とする磐坂神社は,その創建を天文年間(1532年-1555年)としています。その祭神が山を下りて祀られるようになって、医家神社と呼ばれるようになったとすれば、そもそも平安時代に記されている倭大国玉大国敷神社ではないといえます。
以上のことからして、池田町の医家神社は、延喜式神名帳に記された倭大国玉大国敷神社ではなく、美馬町の倭大国魂神社と脇町の倭大国敷神社のいずれかではないかと考える。
日本書紀から倭大国魂神を考えてみる
日本書紀は、第10代崇神天皇のときに、疫病が流行り、百姓は流離し、反逆するものさえ出て、天皇の徳を以ても収められなかったと記しています。
そこで、崇神天皇は、大殿に天照大神と倭大国魂神の二神を祀って祈りました。天照大神は、天皇家の祖神ですから、崇神天皇が祈りをささげるのも当然でしょう。倭大国魂神もヤマトの国そのものの神ですから、国を鎮めるために祈りを捧げたのでしょう。
しかし、二神の神霊をおそれた崇神天皇は、天照大神を豊鍬入姫命に託して大和の笠縫邑に祀り、倭大国魂命を渟名城入姫命に預けて祀らせました。ところが、倭大国魂神の神霊が高すぎたのか渟名城入姫命は髪が抜け体が痩せこけて祀れなくなってしまいます。
そこで、大物主神の神託を受け、大田田根子に大物主神を、市磯長尾市に倭大国魂神を祀らせ、他の神も天つ社、国つ社、神地・神戸を定めて祀ったところ、ようやく疫病が収まり国は鎮まりました。
日本書紀の記述を素直に読むと、崇神天皇は倭大国魂神を恐れており、倭大国魂神も天皇家に祀られることを拒んでいるように思える。
神託を授けた大物主神は大国主命と同一神で、倭大国敷神とも同一神であるといえないだろうか?かつて、倭大国敷神が葦原中つ国を治めていたと考えると、倭大国魂神は、葦原中つ国の国魂ということになる。葦原の中つ国は、大国主命が天皇家の祖先に譲った国だ。国譲りは実質的には奪われたとする方が現実的である。
崇神天皇は、国難を倭大国魂神の祟りと考えたのだろう。結局、国難は治まらず、葦原の中つ国を治めていた倭大国敷神(大物主命)を子孫が祀ることで、ようやく国が鎮まったといえる。
阿波で祀られる重要な神々
崇神天皇が倭大国魂神を祀らせるときに、神を祀るためにいろいろと準備する神班物者(かみものあかつひと)を命じられたのが、大臣の伊香色雄命です。
崇神天皇の母は、伊香色謎命といい、伊香色雄命の妹で、兄とともに「麻植郡伊加加志神社」で祀られています。さらに、伊香色謎命と伊香色雄命の母は、高屋阿波良姫といいます。
高屋阿波良姫は阿波の人じゃないの?
まとめ
今回の調査から推理してみると・・・。
延喜式神名帳に倭大国魂命の名がつく神社が阿波にしかないという事実が表していることは、倭と阿波に何らかの関係があるということだ。倭大国魂命と倭大国敷命は、倭の国にとって重要な神である。阿波に倭大国魂命を祀った一族は、どんな集団だったのだろう。そして、崇神天皇が倭大国魂神を恐れていた理由は?ヤマト王権が滅ぼしたクニだからか?そうなると倭はヤマトではないのか?謎は深まるばかり・・・。そう簡単には、古代史の謎は解けないものだ。