927年に編纂された延喜式神名帳に、麻植郡の小社として、「天村雲神伊自波夜比売神社 二座」と記されています。
そこには、天村雲神(あめのむらくものかみ)と伊自波夜比売神(いじはやひめのかみ)の二神が祀られていました。
何しろ1000年以上も前のことですから、今では、その神社がどこにあったかよくわからなくなっています。
天村雲神伊自波夜比売神社には、二つの候補があります。
山川町川田字村雲にある天村雲神社
ひとつは、吉野川市(旧麻植郡)山川町川田字村雲に天村雲神社です。
天村雲神社は、高越山から流れる川田川が吉野川に合流する際に堆積した扇状地にあります。神社からは、霊峰高越山がきれいに見えます。
先代旧事本紀は、天村雲命の別名を天五多手命(あめのいたてのみこと)と記しています。倭名類聚抄によると、麻植郡には、忌部郷(いんべごう)と射立郷(いたてごう)がありました。天村雲神社の辺りが射立郷で郷名は、天五多手命に由来するのではないかという説があります。
この堤防の高さから考えると、川田川は、氾濫を繰り返していたように思われます。天村雲神社が平安時代からここにあったならば、何度も洪水で流されているような気がしますが・・・。
山川町山崎字流にある天村雲神社
もうひとつは、吉野川市山川町山崎字流の天村雲神社です。
こちらの天村雲神社は、川田川の東側の段丘上の台地にあります。周囲の道も細く、小さな神社です。しかし、近くの字名に雲宮という地名があり、昔の社地はもっと広かったのではと思わせます。
境内には、忌部社摂社 牟羅久毛神社という石柱が建っていました。
こちらの天村雲神社の南側の忌部山の麓に山崎忌部神社があります。山崎忌部神社の祭神は、天日鷲命、后神言筥女命(こといいらめのみこと)、天太玉命、后神比理能賣命(ひりのうめのみこと)、津咋見命、長白羽命、由布洲主命、衣織比女命です。
山崎忌部神社の近くには、忌部山古墳群や金勝寺古墳など、6世紀頃に造られた古墳があり、忌部山型古墳という独特の石室形状から、忌部一族が築造したのではないかと言われています。
なぜ、天村雲神がこの地に祀られたのか?
天村雲命は、古事記や日本書紀には登場しません。その他の書物から探ってみました。
「先代旧事本紀」では、饒速日命の孫、海部氏系図では、天火明命の孫として、天村雲命が登場します。また、饒速日命の天孫降臨にお供した32人の中に、度会神主の祖の天牟羅雲命がいます。
度会氏は、伊勢神宮外宮禰宜を世襲している一族です。
度会氏の系図ともいえる「豊受大神宮禰宜補任次第」は、天牟羅雲命から始まっています。天牟羅雲命の亦名を天二上命、後小橋命と記し、次のような系図が掲載されています。
神魂命―櫛間乳魂命―天曽己多智命―天嗣桙命―天鈴桙命
―天御雲命―天牟羅雲命―天波与命ー天日別命
さらに、天牟羅雲命が瓊瓊杵尊の天孫降臨の時に、天から水を地上に持ってきた功績により、天二上命と後小橋命の2つの名を賜ったと書かれています。
似たような伝承が、京都府の籠神社の奥宮真名井神社にも伝わっています。
この水は籠神社海部家三代目の天村雲命が神々が使われる「天の眞名井の水」を黄金の鉢に入れ、天上より持ち降った御神水です。天村雲命はその水を初めに日向の高千穂の井戸に遷し、次に当社奥宮の眞名井原の地にある井戸に遷しました。その後、倭姫命によって伊勢神宮外宮にある上御井神社の井戸に遷されたと伝えられています。
籠神社HPより引用
麻植郡射立郷には、かつて小橋の地名があり、天村雲命は、神武天皇が日向に居たころの后である阿比良比売の兄の阿多小橋君ではないかという説もあります。
先代旧事本紀や海部氏系図では、天村雲命を天香語山命の子としているので、天村雲命と天牟羅雲命は、別神のような気がします。阿多小橋説も決め手に欠けます。
次に、天村雲命がこの地に祀られている訳について考えてみました。
天村雲神自波夜比売神社は、忌部神社の摂社になっています。摂社とは、主祭神やその神社に深いかかわりがある神様を祀っています。
忌部神社の主祭神は、天日鷲命です。
「先代旧事本紀」の国造本紀に「天牟久怒命孫 天日鷲命」が伊勢国造になったとあります。この天牟久怒命が天村雲命であるとして、天村雲命と天日鷲命とを関係づける説があります。
しかし、「伊勢国風土記逸文」には、伊勢国を平定し、伊勢国造になったのは、天日別命だと記されています。
815年に編纂された「新撰姓氏録」も「伊勢朝臣 天底立命六世孫 天日別命之後也」と伊勢国造の祖を天日別命としています。
また、「左京神別 弓削宿祢 高魂命孫 天日鷲翔矢命之後也」「右京神別 久米宿祢 神魂命五世孫 天日鷲命之後也」と記されていることから、「国造本紀考」も「新撰姓氏録考證」も神代に活躍した天日鷲翔矢命と国造本紀に記された天日鷲命は別神であり、国造本紀に記された天日鷲命は天日別命であると論じています。
そうなると、阿波忌部の祖が、天日別命となってしまいます。これはさすがにおかしいと思います。
国造本紀の「天牟久怒命」を「あめのむらくも」と読ませるのにも無理があります。
また、写本のどこかで、「天牟久毛を天牟久怒」と間違ったのなら「天日別を天日鷲」と間違っても不思議ではないと思います。都合のいいところだけ写し間違えたというのもかなり無理があります。
江戸時代に記された「大麻彦神社傳来書上帳」には、「天日鷲命が清麻梶をすすぎ給い洗いし井戸」として「丹(あか)の水」と呼ばれる井戸があったと記されています。そして、そこには、かつて御井ノ社として、天日鷲命と天二上命の二神の祠があったと伝えています。
天二上命とは、天村雲命の亦名です。大麻比古神社の背後にある大麻山には天村雲命が持ち帰った「天の眞名井の水」と同じ名の付く天真名井とよばれる泉が湧いています。
「式内調査報告書(皇學館)」には、「古代史村落より見たる式内社の研究(志賀剛)」より、天村雲神社の境内には、東南隅に旱天にも涸れない清泉が湧いていたということが記されています。
忌部一族は、かつて大麻比古神社にあった御井ノ社と同じように、清水が湧く井戸に清水の神様として天村雲命を祀っていたのだと思います。
天日鷲命との関係を探るよりも、この方がずっとしっくりきます。
神に神聖なる織物を捧げていた忌部一族にとって、麻と同じように大切なのが清水だったのかもしれません。
伊自波夜命とはいったい誰?
天村雲命以上にわからないのが伊自波夜命です。
第一に、天村雲命の妻神ではないかという説があります。これは、延喜式神名帳に「天村雲神伊自波夜比売神社 二座」と記されていることを根拠にしていると思われます。ただ、並坐されているからといって必ずしも夫婦神とは限りません。
第二に、伊自波夜比売神を音が似ていることから、長野県の諏訪大社に祀らている建御名方神の御子神である出速雄命の子の出早比売命(いずはやひめのみこと)だという説があります。
諏訪大社の元社は、延喜式神名帳に記された「阿波国 名方郡 多祁御奈刀弥神社」だという説を根拠にしていると思われます。
Wikipediaを見ていると、天村雲命の父の天香語山命が越ノ国を出速雄命が信濃国を開拓したので、互いの子どもを結婚させたという戦国時代の政略結婚のような説もありました。
第三に、延喜式神名帳に、「志摩国 答志郡 粟島坐伊射波神社」の祭神のひとりである玉柱屋姫命ではないかという説もあります。
「粟島」の「あわ」という音や「伊射波」が「いしは」とも読めることもそうですが、玉柱屋姫命が天村雲の裔、伊勢国造天日別命の子の伊佐波登美命の娘であるという伝承を根拠としているようです。
第四に、「式内調査報告書(皇學館)」には、「古代史村落より見たる式内社の研究(志賀剛)」より、境内に清泉があったことから、天村雲命を雨神として祀り、伊自波夜比売命は、水の「イズム」ことを早かしめる姫神として相祀ったのではないかと推察しています。
つまり、「いずむはやひめ」が「いじはやひめ」になったというのです。絶対に違うとは言い切れませんが、これは、もはや大喜利ものかと・・・。
第五に、「古代氏族系譜集成」には、阿波忌部・忌部連系図として、天日鷲翔矢命の横に「母伊自波夜比売命」と書かれています。しかし、何を根拠に記されているのか全く分かりません。
結局のところ、伊自波夜比売命については、どの説も決め手を欠きます。とりあえず、第四の玉柱屋姫命説は、伊勢国造の天日別命と阿波忌部の祖の天日鷲命は別神だと思うので、違うと思います。
まとめ
「天村雲神伊自波夜比売神社 二座」として阿波国麻植郡に祀られた天村雲命と伊自波夜比売命についていろいろと探ってきました。
私としては、一番有力なのは、高天原から「天真名井の水」を葦原中国にもたらした天村雲命を清泉の神として祀ったのではないかと思います。そして、伊自波夜比売命も同じように水の神様として祀られたのではないでしょうか。
ただ、ひとつ気になるのは、忌部神社の摂社に天太玉命と天石戸別命を祀る岩戸神社があります。その岩戸神社の境内に忌部一族が麻を晒したと伝えられている洗ったという「岩戸の甌穴」という泉があります。
天村雲命を祀るならここが最適のような気がしますが・・・。