天円山と書いて「あまがつぶ」と読みます。
徳島県鳴門市にある天円山は別名を天ケ津峰ともいい、標高434mの山頂に、天ケ津神社が鎮座しています。天ケ津神社は、天鈿女命(あめのうずめのみこと)を祀っています。
天鈿女命は、天照大神が、天岩戸に隠れ世界が暗闇に覆われた際に、岩戸の前で踊って誘い出した神様です。
また、高天原から降った天孫瓊瓊杵尊一行の一員で、立ちふさがった国つ神の猿田彦命を説得したのも天鈿女命です。その後、天鈿女命と猿田彦命は夫婦となりました。
天円山の西側には大麻山があり、その麓には、阿波国一の宮、大麻比古神社があります。大麻比古神社には、猿田彦命が祀られており、古くは、大麻山に祀られていた猿田彦命を大麻比古神社に合祀したといわれています。大麻山と天円山を地図で見ると、二つ仲良く並んでいます。二つの山に猿田彦命と天鈿女命の夫婦を祀るとは、古代阿波の人々もなかなかロマンチストだと思いませんか?ちなみに、大麻比古神社で祀られているもう一人の神である天太玉命も、天鈿女命とともに天岩戸伝説の場にいた神です。
いざ、天円山山頂へ!
天円山山頂までは、登山道を直登すれば、約1時間ほどで着きます。その登山口となっているのが、麓の御嶽神社(みたけじんじゃ)です。御嶽神社は、修験道の神である蔵王権現を祀る神社とされ、社殿裏の天円山へと続く登山道には、多くの行者の石像が立っています。
登山道をしばらく登ると奥の院がありました。祠横の石碑には、御嶽山座王大権現と書かれていました。それにしても、何とも不思議な姿をした石像が並んでいます。服装なども和風ではなく、どこか大陸の雰囲気が漂っています。
祠の左右の石碑には、「月読尊(つくよみのみこと)」刻まれていました。 月読尊は、天照大神と素戔嗚尊とともに伊弉諾尊から生まれた神です。月という文字から、天照大神とは対照的で、どこか陰を感じさせる神様です。徳島県では、美馬市脇町の西照神社に祀られています。
他にも「金刀以羅神社」「秋葉神社」「愛宕神社」「大麻彦神社」神社名が書かれた石碑がありました。見どころ満載で、長く留まってしまいましたが、登山を再開することに・・・。
登山道を進んでいくと、分かれ道が現れました。どうやら直登ルートとは別のルートがあるようです。気になるのは、「直登」と書かれた標識の下にある「猿の墓」の文字・・・。
ものすごく興味をそそられたので、直登ルートを登らず、猿の墓の方へと進みました。しかし、ワクワク感は、次第に不安に変わって行きました。誰もいない山道を谷を越え尾根を進むこと約1時間・・・。ようやく開けた場所に出ました。
地元には次のような伝説が残っているのです。
大猿の墓が「猿の墓」で、近辺には「漁師の墓」もあそうです。猿の墓と書かれた石を見ると、「文保2年(1318年)」という文字が見えるます。鎌倉時代・・・すごい・・・。
古代の大麻山の神は猿田彦命です。何やら関係がありそうです。この伝説は、何らかの出来事が大猿退治伝説として伝えられたものではないでしょうか?尾根の先端にある猿の墓は、古墳であるという説もあります。
猿の墓から尾根伝いに歩くことさらに30分余り・・・。ようやく、天円山の頂上に着いきました。登山口の御嶽神社から約2時間かかりました。
標高434mの天円山の山頂からの眺めは絶景で、遠く和歌山まで見えます。国生み伝説の淡路島や淡島も間近に見えます。
この眺めだと、紀伊水道を渡る船からは、天円山も見えるに違いありません。天円山は、南海道のランドマークだったのではないでしょうか。しかしこの眺めを見ていると、逆のことが浮かんできました。天円山から見ると、紀伊水道を通る船の動きが手に取るようにわかります。
「天円山は、南海道監視のための絶好のポイントであり、古代阿波を支配した海人族の重要拠点となっていたに違いない。」
山頂には、天鈿女命を祀る天ケ津神社がありました。大麻山に鎮座する猿田彦神と天円山に鎮座する天鈿女命。妄想を掻き立てられるではありませんか。
天円山にまつわるもう一つの謎
天円山の麓には、ちょうど天円山を囲むようにして、3つの葛城神社があります。
鳴門市北灘町にある葛城神社は、天智天皇が落馬した際に、目を傷めて療養したという伝説があり、葛城大神を祀っています。
鳴門市大麻町姫田の葛城神社境内からは、古墳時代の遺物が発見されており、周辺にも多くの古墳が確認されています。また、貝塚跡もあり、古くから多くの人が暮らしていた痕跡が残っています。
鳴門市大麻町大谷の葛城神社の本殿裏には、横穴式石室を持つ直径15mの円墳が現存しています。祭神は、一言主命です。
奈良大和に根拠を置き、4世紀から5世紀にかけて大王に並ぶ勢力を誇った古代有力豪族の葛城氏は、紀ノ川の水運を利用し、紀水門から鉄を主要とする交易品を独占的に入手していたのではないかと考えられています。紀水門の先は、洲本、撫養、郡頭という古代南海道の港へ続きます。3つの葛城神社もこのルートにあります。
4世紀から5世紀の天円山近辺は、葛城氏の影響下にあったと考えられます。大きな勢力を誇った葛城氏は、456年、葛城円大臣が雄略天皇に攻められて滅亡します。難を逃れた一族が、紀ノ川をたどって阿波へ逃れたことは十分考えられます。
円大臣(つぶらのおおおみ)と天円山(あまがつぶやま)の名前の関係も怪しいと感じませんか?大猿退治の伝説も雄略天皇の残党征伐に関係があるのかもしれない・・・なんて思うと、あ~妄想がとまりません。