吉野川に架かる四国三郎橋のたもとに、延喜式内社の天佐自能和気神社(あまのさじのわけじんじゃ)があります。朱色の屋根がひときわ目を惹きます。
天佐自能別神社
「徳島県神社誌」によると祭神は、天佐自能和気大神となっています。
天佐自能和気大神とは?
天佐自能和気大神という神様は、古事記にも日本書紀にも登場しません。
神社境内に建っていた由緒書には、祭神は、高皇産霊尊、神皇産霊尊、意冨夜麻登玖迩阿礼比売命、日子刺肩別命と書かれています。
みんなまとめて天佐自能和気大神っていうこと?
祭神の一神である日子刺肩別命(ひこさしかたわけ)は、第7代孝霊天皇の皇子で、異母兄弟に、卑弥呼説のある倭迹迹日百襲姫命(やまととひももそひめ)や桃太郎説のある吉備津彦命(きびつひこ)がいます。
ビッグネームの登場に気を取られて、主祭神は日子刺肩別命と思い込んでいました。
しかし、最近、ランニングの途中、この神社に立ち寄った際にあることに気づきました。
天佐自能和気神社の社殿の南方に大鳥居があります。
奥の方に朱色の屋根の社殿が見えますが、その向こうに大麻山が見えます。このアングル偶然とは思えません。何か意図的なものを感じます。
「徳島県神社誌」によると、天佐自能和気神社は、髙崎村和気にあった高木権現を式内社に比定し、明治3年に天佐自能和気神社と改称したとあります。
天明2年(1782年)に書かれたとされる「阿府志」に、「天佐自能和気神社 名方郡髙崎村和気分に有り高木権現と云う祭神高皇産霊尊一座」とあり、これが根拠になっていると思われます。
「阿府志」は、天佐自能和気という神名は、「アマサシ」と「タカサキ」の母音が同じことから「高崎の和気の神」であるとしています。
つまり、「タカサキノワケノカミ」が「アマサシノワケノカミ」となったということか・・・。大喜利みたいだな。かなり無理がある。
一方で、明治初期の阿波出身の探検家・教育者である岡本監輔氏は、「名神序頌」の中で、「天(アマ)と日子(ヒコ)はどちらも美称で同じ意味、「能」と「肩」の草字がよく似ているので「佐自肩(サシカタ)」を「佐自能(サシノ)」と写し間違えたためで、天佐自能和気は日子刺肩別命だとしています。
つまり、「肩」と「能」を写し間違えて、「サシカタワケ」が「サシノワケ」になったというわけか・・・。これ古代史妄想あるある・・・。
高皇産霊尊は、大同2年(807年)に書かれた「古語拾遺」では、天太玉命(あめのふとだまのみこと)の父であると記されています。
天太玉命は、忌部氏の祖とされ、阿波国を開拓した阿波忌部氏も天太玉命を太祖としています。阿波国一宮である大麻比古神社は、大麻比古大神を祭神としていますが、HPの御祭神の説明では、この大麻比古大神を天太玉命だとしています。
天佐自能和気神社の大鳥居から社殿を見た際に、あまりにもきれいに大麻山が見えるので、阿波忌部氏との関係もありそうです。
天佐自能和気神社の元となった高木権現は、現在の社地から北へ約1km程のところにあった祠を大洪水の際に遷したそうです。真北に1kmならこのアングルはそう変わらないと思います。
高木神祠は、元は鮎喰川上流にあった?
天佐自能和気神社の社殿の裏には、これでもかっていうほどたくさんの祠があります。
さすがに近隣の祠を合祀しただけではこれだけの数にはならないので、おそらく、洪水で流されてきた祠で元の社地が不明なものをお祀りしているのだと思われます。
高木権現も、もともと鮎喰川の上流にあったという言い伝えがあります。
天佐自能和気神社の南方を流れる鮎喰川を約10kmほど遡ったところの入田町には「天ノ原」という妄想好きにはたまらない地名があります。
高天原の統率者でもあった高皇産霊尊を祀る祠が「天ノ原」から流れてきた・・・。
寛保3年(1743年)の「寛保御改神社帳」の名東郡髙崎村の項に、高木権現も天佐自能和気神社も記されていません。
また、文化12年(1815年)に完成した「阿波志」は、延喜式小社として「天佐自能和気祠」を記しているものの所在不明としています。
「寛保御改神社帳」や「阿波志」は、幕府や藩の命令で書かれた言わば公式文書ですから、あまりいい加減なことは書けなかったと考えられます。
しかし、「阿府志」には、「髙崎村和気分の高木権現」記されているので、高木権現は存在していた考えられます。
とはいえ、「阿府志」も「今は小祠に祀られて神名を云う人稀也」と書いてあるくらいですから、高木権現は「寛保御改神社帳」や「阿波志」を記した人も「これじゃないよね。」と思うくらい小さな祠だったと思われます。
なぜ、日子刺肩別命は高木権現に祀られたのか?
日子刺肩別命を天佐自能和気神社の祭神としているのは、神社境内に建っている神社由緒だけです。
前述の「名神序頌」は、古事記に日子刺肩別命が海直の祖とあることから、この地を治めていた海直(あまのあたい)が、もともと高皇産霊尊を祀っていた祠に、祖神を後から祀ったのではないかと推察しています。
海直とは、ヤマト王権において海人族である海部(あまべ)を統括する役割を担った一族に与えられた姓(かばね)です。
「三代実録」には、貞観6年(864年)に名方郡の海直豊宗、海直千常ら同族7人が大和連姓を賜ったとあり、日子刺肩別命からかなり時代は下りますが、名方郡に海直が居住していたのは確かです。
これら海直は、天武天皇13年(684年)に制定された八色の姓の中の一つである「連(むらじ)」を賜っていることから何らかの功績があったと考えられます。延喜式神名帳が編纂されたのが延長5年(927年)ですから、天佐自能和気神社が延喜式内社となったのも海直氏の影響があったと思われます。
そう考えると、やはり、天佐自能和気神社は、日子刺肩別命を祀っていたことで延喜式内社に列せられたと考えられます。
「先代旧事本紀」に日本武尊の皇子の息長田別命が「阿波君の祖」と記されています。阿波君とは阿波の統治を任されたという意味だと考えられます。
息長田別命は、海部城(あまき)という現在の国府町府中辺りに居住していたとされています。
海部城というくらいですから周辺には多くの海部が居住していたと考えられます。海部城のあったとされる国府町府中と天佐自能別神社の距離は約2kmです。海部城の範囲内と考えてもいいくらいの距離です。
「国造本紀」には、応神天皇の時代に高皇産霊尊の9世孫の千波足尼(ちはのすくね)を粟国造に定めたとあります。高皇産霊尊は粟国造の祖なので、どこで祀られていても何ら不思議ではありません。
息長田別命は日本武尊の皇子で、応神天皇は日本武尊の孫にあたります。
ということは、高皇産霊尊を祖とする千波足尼が粟国造になる前に、日子刺肩別命を祖とする海部が居住していたことになる・・・。
高皇産霊尊を祀っていた祠に日子刺肩別命を祀ったというよりも、日子刺肩別命を祀っていた祠に高皇産霊尊も一緒に祀られたと考える方が自然かもしれません。
日子刺肩別命を祀っていた祠があったから「和気(わけ)」の地名がついたと考えるとさらにしっくりきます。
つまり、日子刺肩別命が高木権現に祀られたのではなく、日子刺肩別命を祀っていた天佐自能和気神社(本当は天佐自肩和気神社)に高皇産霊尊が一緒に祀られるようになり、いつしか高木権現と呼ばれるようになったと妄想できるのです。
まとめ
10世紀頃の天佐自能和気神社がどれほどの規模だったかは分かりませんが、小社とはいえ延喜式神名帳に列せられるくらいの神社ですからそれ相応の規模はあったと思われます。
その背景には、第7代孝霊天皇皇子の日子刺肩別命を祖とする海直氏の影響があったと思われます。
「阿府志」は、息長田別命の子孫は、その後、那賀郡海部の県主になったと記していますので、これを信用すると、海直氏が海部城を去ったあと、天佐自能和気神社も衰退していったと思われます。
それでなくても常に洪水が襲っていた地域だったので、一度流された社の規模もどんどん小さくなっていったと推測できます。
その後、鎌倉時代、あるいは室町時代に洪水によって鮎喰川の上流から和気の地に流れ着いたのが高木神で、いつしか高木権現と呼ばれるようになり、天佐自能和気神社は言い伝えだけが残ったという妄想が描けます。