【阿波の神社を行く!】その距離わずか200m!二つの延喜式内社「宇母理比古神社」と「速雨神社」との関係は?

阿波の神社を行く!

927年に編纂された延喜式神名帳に「阿波国 勝浦郡 宇母理比古神社」「阿波国 勝浦郡 速雨神社」と記された神社があります。延喜式神名帳に記された神社は、当時そこに確実に存在し、国から幣帛へいはくを受けていた格式のある神社のことです。

そんな格式のある神社が八多川(やたがわ)を挟んでわずか200mの距離にあります。

二つの神社を訪ねてその関係を探ってみました。

宇母理比古神社

延喜式神名帳に記された宇母理比古神社(うもりひこのかみのやしろ)だとされているのが、徳島市八多町森時41にある宇母理比古神社です。

この神社、小さいうえに非常にわかりにくいところにあります。地図を見ても場所がわからず、八多川を右へ渡ったり左へ渡ったりして、ようやく見つけることができました。

社殿は、山の麓にへばりつくように建っています。鳥居に「宇母理比古神社」の比較的新しい扁額が掲げられています。

徳島県神社誌には「鵜鷀守神(うもりのかみ)」を祀っていると記されています。「鵜鷀」の二字で「う」と読むようです。

この鵜鷀守神が一体誰なのかということで諸説あります。

まず、「勝浦郡誌」は、鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと )だとしています。これは、「鸕鶿」という文字から推察していると思われます。

鸕鶿草葺不合尊は、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)と豊玉姫命(とよたまひめ)の子で、初代天皇となる神武天皇の父です。つまり天皇の直系にあたる人物です。

「阿波国式社略考」は、古事記に記された第30代敏達天皇の皇子の「宇毛理王(うもりのみこ)」であるとしています。宇毛理王の母は、のちに第33代推古天皇となる豊御食炊屋比売命(とよみけかしきやひめのみこと)です。

ちなみに、日本書紀では「鵜鷀守皇女(うもりのひめみこ)」と皇女として記されています。

「式内社の研究」の中で志賀剛は、住所が「森時」で、「宇母理」は「大森」が訛ったのもではないかとしています。

 「うもり」の音が合っている敏達天皇皇子の「宇毛理王」のようなきがするけどなあ・・・。

速雨神社

「はやさめじんじゃ」と読みます。徳島市八多町板東にあります。こちらは、社殿の横に大きな楠木があるのですぐにわかります。

「雨宮里水田中」と書かれているように、山の中ですが、回りは水田に囲まれています。

「徳島県神社誌」は、「阿波志」を根拠にして「速雨神社 豊玉姫命を祭る 八多村雨の宮という所に在り・・・世に雨を祈れば必験あり」と記し、祭神を豊玉姫命としています。

しかし、「阿波志」を見てみると、「速雨祠 延喜式亦為小祠在八多邑雨宮里水田中金龍寺之」と記されているだけで、祭神については触れられていません。

「阿波国式社略考」は、豊玉彦命が祭神であるとしています。豊玉彦命は日本書紀で海神豊玉彦とも記され、豊玉姫命の父です。

延喜式神名帳に掲載されている神社のうち、「豊玉姫」の名が付く神社は、阿波国のみ2か所もあります。それだけ、豊玉姫命が阿波国において重要な神様だということがいえます。


豊玉姫命は、出産のときの姿から「龍神」として祀られることもあり、古来中国の龍が雨を降らせるという信仰と相まって、いつしか雨乞の神様として祀られるようなったと思われます。

2つの神社の関係は?

延喜式神名帳が書かれた10世紀に二つの神社がこの場所にあったかどうかは定かではありません。しかし、そう遠くないところの二つの神社が延喜式内社となったのには何か理由があるはずです。

神社由緒は、その理由として、八多町付近が中央豪族の海犬飼氏(あまのいぬかいし)の領地であったことが影響していると推察しています。

つまり、国から幣帛を受けるにあたり、海犬飼氏のはたらきかけがあったということです。

海犬飼氏は海犬養氏とも記され、645年の乙巳の変では、海犬養連勝麻呂(あまのいぬかいのむらじかつまろ)が蘇我入鹿暗殺に関わっています。

海犬養氏は、海人族である安曇氏の一族と考えられており、同族に八太造らがいます。いずれも海神(わだつみ)を祖にもつ海人族です。

「八太造」と「八多町」は、音が「はた」で共通しています。

豊玉彦命も豊玉姫命も海人族が祀っている神様なので、海人族がこの地を領地としていたなら、速雨神社の祭神も豊玉彦命か豊玉姫命であるのは納得です。

そうなると、宇母理比古神社に祀られているのは、豊玉姫命の子の鸕鶿草葺不合尊が有力になります。

「道は阿波より始まる」では、日本書紀に第35代皇極天皇が南渕の川上で雨乞をしたところ5日間雨が降り続いたことが記されており、その雨乞をした場所が速雨神社だとしています。皇極天皇の名が、天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)で、八多町の下流の多家良(たから)町に居たから「たからひめ」と称し、「たらし」は海人族にかかわりがある名であることを根拠としています。

さらに、皇極天皇の曽祖父が敏達天皇であることから、その皇子の宇毛理王が近くの宇母理比古神社で祀られているとしています。

 「宇母理比古=宇毛理王」説も捨てがたいのが・・・。敏達天皇には17人も皇子皇女がいるのに、宇毛理王だけがここで祀られていることには違和感がある・・・。

まとめ

どうやらこの地を治めていた海人族が、その祖神である神様として、速雨神社には豊玉姫命を、宇母理比古神社には鸕鶿草葺不合尊を祀ったと考えるのが妥当なようです。

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