徳島県鳴門市の萩原墳墓群の萩原1号墳、萩原2号墳は、その築造が3世紀前半とされています。3世紀前半といえば、邪馬台国の女王卑弥呼が活躍していたころです。萩原1号墳、2号墳は、突出部をもつ円形の積石塚墳墓で、前方後円墳の原型ではないかといわれています。
邪馬台国時代につくられた前方後円墳の原型?これは、捜査せねばなりませんぬ。
萩原1号墳・2号墳とは?
萩原1号墳は、取り壊されて県道12号線が走っていて、すでにその面影さえ残していません。
昭和50年代に発掘調査がなされ、直径約18mの円丘部から、写真の空き地方向に約8.5mの突出部を備えていました。阿波・讃岐地方独特の積石墳丘墓であり、円丘部の高さは80cm、突出部の高さは20cm程でした。
2号墳は平成16年~19年にかけて発掘調査がなされました。写真の小山の上にあり、直径21mの円丘部に5.6mの突出部を持っていました。高さ約80cmの積石墳丘墓でした。両者に特徴的なのは「石囲い木槨」という埋葬構造です。同じ構造を持つ墳丘墓に、奈良県桜井市の纒向古墳群の中にあるホケノ山古墳があります。大和地方では唯一の「石囲い木槨」構造を持ち、3世紀中頃の築造とされています。構造からして、萩原2号墳の方がその前身とされています。
なるほど、「石囲い木槨」という特異な埋葬施設が、阿波から畿内へ持ち込まれたのではないかという仮説が成り立つわけだ。阿波の豪族が畿内へ進出したということか?
萩原1号墳の墳丘上には、供献土器が飾られていたと考えられています。その姿は、今となってはわかりませんが、香川県善通寺市にある3世紀後半の築造と考えられる野田院古墳から想像することができます。
復原された野田院古墳
萩原古墳群の一部が、近くの宝幢寺の境内に移築保存されています。
出土物から見えてくる被葬者の姿
萩原1号墳からは、破砕されてれ副葬されたと考えられている画文帯神獣鏡が見つかっています。この画文帯神獣鏡は3世紀の初め頃に、楽浪・帯方郡をつうじて勢力を誇っていた公孫氏から入手した中国鏡ではないかと推察されています。さらに、出土した管玉も縦方向に打割されており、破壊されて納められた副葬品が何を意味するのか気になります。このほか、突出部の左右に埋められた壺棺からは、朱精製用の石杵が発見されています。発見された朱は国内産であると考えられ、おそらく、那賀郡の若杉山遺跡で採掘された水銀朱を精製したものと考えられます。鳴門市の隣の板野町の黒谷遺跡からは、弥生時代に朱の精製を行っていたとされる住居跡も発見されており、萩原1号墳の被葬者と朱の精製に何らかの関係があることがわかります。
2号墳からは、中国後漢時代(1世紀中頃から後半)のものとみられる内行花文鏡が見つかっています。内行花文鏡は、粉砕された状態で副葬されたのではないかと考えられています。また、2号墳からは、中後国産とみられる水銀朱が見つかっています。
萩原1号墳・2号墳ともに、破砕副葬された銅鏡、水銀朱が確認されています。2号墳の水銀朱は中国産であることがわかっています。
出土物から推理すると、萩原1号墳・2号墳の被葬者は、中国との交易を行っていた海人族であると思われる。萩原墳墓群は、河岸段丘上に位置していて、弥生時代には、すぐ南に海岸線がせまっていた。被葬者に迫るヒントになるのが、萩原墳墓群のすぐ東側にある3世紀後半から5世紀にかけて築造されたと考えられている天河別神社古墳だ。
天河別神社古墳についてはこちら
天河別神社の祭神は、天石門別神(あめのいわとのかみ)で、別名を豊石窓神(とよいわまどのかみ)、櫛石窓神(くしいわどのかみ)といい、御門の神とされています。豊石窓神と櫛石窓神は、宮中に侵入する邪神を阻止する神で、その祭祀は忌部氏が取り仕切っていました。古語拾遺では、この2神を太玉命の子であるとしています。天河別神社から西へ約2kmほどいくと、阿波国一宮の大麻比古神社があります。大麻比古神社の由緒には、阿波を開拓した忌部氏がその祖の太玉命をこの地に斎き祀ったとあります。
天河別神社の創建年代は不詳だが、天石戸別命を祀っている場所に古墳を作るとは考えられない。古墳があったからその霊代を祀ることにしたのだろう。そうすると祭神である天石戸別命は天河別神社古墳群を築いた人々に関係する神ということになる。天河別古墳の被葬者一族が忌部氏と関係があるとすれば、すぐ近くの萩原墳墓群の被葬者一族も忌部氏と関係があるのだろうか?
しかし、天河別神社古墳で一番最初に造られたと考えられている4号墳の築造年代は、3世紀後半と考えられており、萩原2号墳とは、およそ80年程の開きがある。古墳の築造方法も全く違う。また、萩原1号墳・2号墳ともに埋葬主体が東西軸であるのに対して、天河別神社4号墳は、北東南西方向にふっており、それ以降の天河別神社古墳群の古墳は畿内の影響を受けた南北軸になっている。
これらのことから考えると、萩原墳墓群を築いた一族と天河別神社古墳を築いた一族は全く違う一族であると考えた方が妥当だ。
まとめ
鳴門板野地域は、その地理性から、讃岐とのつながりが強かったと考えられる。後の大代古墳の舟形石棺に讃岐産の凝灰岩が使用されていることからもわかる。
萩原墳墓群を築いた一族は、瀬戸内海を経由した海上交易を行っていた海人一族であると考える。瀬戸内地域の中でも吉備は、早くからヤマトに進出したことが、箸墓古墳に使用された特殊器台からわかっている。おそらく、吉備と同時期に他の瀬戸内地域もヤマトに進出したはずである。萩原墳墓群を築いた一族もヤマトに進出したであろう。そして、ホケノ山古墳を築いたのではないか?
その後、畿内の影響を受けた古墳が近くの天河別神社古墳として築かれるのは、ヤマトの影響を受けた一族がこの地域を支配するようになったからであろう。もしかしてそれが忌部一族だったりして・・・。いやあ、なかなか面白い。
そう簡単には、古代史の謎は解けないものだ。