いざ、忌部山へ!
忌部山古墳群は、徳島県吉野川市山川町の忌部山の中腹に点在しています。忌部氏の祖神である天日鷲命を祀る忌部神社の裏山が忌部山です。
忌部神社までは車で行くことができます。忌部神社の駐車場に車を止めて林道を登っていくと「忌部山古墳」の案内板が見えてきます。
ここから600m先・・・。登るしかありません。
しばらく行くと、巨石がごろごろしているところに小さな祠がありました。ここは黒岩磐座遺跡といい、忌部神社がもとあった場所で、1369年の地震で社地が崩れたそうです。
磐座というだけあって、神秘的な雰囲気が漂っています。さらに進むと・・・。
二つの大きな岩が地面に突き刺さっていました。真立石(またていし)と書いてあります。
さらに誰もいない山道を一人登って行きます。辺りは竹林で、風が吹くたびに竹同士がぶつかり合ってきしむ音が不気味に響きます。
ようやく、忌部山古墳群に到着!
辺りに竹林が見えななくなったところで、遠くに明るく開けた場所があります。近づいてみると、横穴式石室が開口した円墳がありました。忌部山3号墳でと書かれています。開口部からのぞき込んでみると、羨道と玄室の石積みは残されており、袖石も確認できました。
3号墳の奥に4号墳がありました。4号墳は、ほぼ崩壊していましたが、忌部山型古墳の特徴である玄室の隅丸が確認できます。
4号墳の奥に5号墳がありましたが、5号墳は柱石しか残っていませんでした。1978年の発掘調査で、須恵器の他、メノウ勾玉、管玉、金環、銀環、耳環、ガラス小玉などが発見されたと書かれています。
3・4・5号墳から少し山道を進んだところに1・2号墳がありました。2号墳の内部は丁寧に石を積んだ玄室が確認できます。忌部山型古墳の特徴である隅丸もよくわかります。
1号墳は墳丘しか確認できませんでした。
忌部山に古墳を築いたのは阿波忌部氏?
忌部山古墳からは、高坏、金環、銀環、耳環、勾玉などが出土しています。副葬品から想像すると、被葬者は女性のような印象を受けます。古代ヤマト王権では忌部氏は祭祀を司っていました。何しろ、天照大神の岩戸伝説で活躍した天太玉命を祖とする一族です。祭祀用具とすれば男性もあり得ます。しかし、規模、副葬品からしても、首長墓とは考えにくい面もあります。忌部山古墳群を築いた集団は、支配豪族ではなく、祭祀集団だったとも考えられます。
忌部山古墳群は6世紀後半の築造とされています。忌部山から約20㎞はなれた吉野川の対岸には、同じ6世紀後半に築造された直径30mを超える太鼓塚古墳(段の塚穴古墳群)があります。太鼓塚古墳の横穴式石室は約13mでこちらの方は、首長墓としてふさわしいように思います。
忌部山古墳群を築いた集団と段の塚穴古墳群を築いた集団の関係も気になるところです。
まとめ
天井をドーム状に持ち送り、玄室を隅丸に築く独特の「忌部山型石室」をもつ古墳は吉野川市(旧麻植郡)一円に分布しています。
8世紀の「続日本紀」や9世紀の「日本霊異記」などの書物に、麻植郡に一円に忌部氏がいたことが記されており、6世紀後半に忌部山古墳を築いた集団は、阿波忌部一族であると推定されます。
忌部山には前期古墳はなく、6世紀後半に突如忌部山古墳群が築かれています。それ以前は、阿波忌部一族はどこにいたのでしょう。