【阿波の古墳を行く!】四国最大級の前方後方墳がなぜここに造られた?「椎ケ丸古墳」(阿波市土成町)

阿波の古墳を行く!
徳島県阿波市にある椎ケ丸古墳は、全長75mの前方後方墳だといわれています。Wikipediaによると、全国で二百数十基程確認されている前方後方墳の中で70mを超えるのは34基だそうです。椎ケ丸古墳が、本当に全長75mの前方後方墳なら、全国でも珍しい古墳になります。その真偽を椎ケ丸古墳を訪ねて探ってみましょう。
ちゃぼたつ
ちゃぼたつ

徳島県にある前方後方墳としては、丹田古墳(全長約37m)、奥谷1号墳(全長約50m)があります。ともに4世紀頃の築造と考えられています。それらと比べても相当大きな前方後方墳になりますね。

椎ケ丸古墳の上に建つ御所神社

まずは、古墳の上に立っているという御所神社(ごじょじんじゃ)を探すことにしました。

一の鳥居(おそらく?)から北の阿讃山脈へまっすぐ参道がのびていました。参道が行き着く先に長い階段があり、登り切った所に御所神社の社殿がありました。御所神社の祭神は、素戔嗚命と土御門天皇となっています。

【御所神社由緒沿革】
・970年(天禄年間)高林坊盛尊が讃岐国宇多津浦から吹越天王を奉じ、岡の山に奉斎する。
・1696年(元禄9年)神宮司別当順雄が宮河内谷川の洪水を避け、現在の宮地に奉遷する。
・1908年(明治41年)村社となる。
・1913年(大正2年)近隣17社を合祀する。
・1957年(昭和32年)御所屋敷にあった御所神社を合祀し、御所神社と改称する。
ちゃぼたつ
ちゃぼたつ

なるほど、元は岡の山という所で祀っていたのを江戸時代に高台に移したんですね。それが椎ケ丸古墳の墳丘上だったことになりますが・・・。

これが前方後方墳???

神社は古墳の上に建つという情報でしたが、社殿の周りには古墳らしきものは見当たりません。社殿の裏へまわってみると、ここにも鳥居が建っており、「椎ケ丸古墳」という石碑がありました。

昭和54年県道船戸切幡上板線バイパスの新築工事に際し、椎ケ丸古墳は県文化課の測量調査により、前方後方墳ではないかといわれ保存された古墳である。前方後方墳とは凸型の古墳をいい、前方部、後方部とも四角の形状をなした古墳であって古い形態に属し、全国でも100基余り、県下では丹田古墳、徳島市の奥谷古墳などがある。この椎ケ丸古墳は、全長約75メートルで、後方部縦横約40メートル、前方部縦35メートル、横約25メートルもあり、県下有数の大規模な前方後方墳とされている。しかし、本格的な発掘調査がなされてないため、内部構造、副葬品、築造年代、被葬者等は詳らかでない。     平成元年12月 上板町
石碑が立っている後ろのこんもりとしたところが墳丘だと思われます。その周りを歩いてみましたが、どこからどこまでが墳丘で、どっちを向いているのかさえ、さっぱりわかりませんでした。

ちゃぼたつ
ちゃぼたつ

うーん、測量調査で前方後円墳らしいということで保存されたんですね。おそらく詳しい調査の予定はないのでしょうね。こうなったら妄想するしかありません。

椎ケ丸古墳の被葬者を探る

御所神社の社殿の建っているところが埋葬施設で後方部だと仮定すると、こちらは前方部ということになります。御所神社の社殿へは、南からかなり急な階段を上ってきたので、古墳は河岸段丘上の高い位置の先端部に造られています。

ちゃぼたつ
ちゃぼたつ

前期古墳らしく、とても眺めのいいところに古墳が造られています。丹田古墳も奥谷1号墳も集落もしくは水田であった平野部が見渡せる位置に造られてました。

椎ケ丸古墳の辺りからは旧石器時代の集落遺跡が見つかっています。
椎ヶ丸遺跡は宮川内谷川の左岸、標高約90mの河岸段丘上から発見された約25,000~20,000年ほど前の旧石器時代の遺跡である。1990年(平成2年)に高速道路建設に伴って調査が行われ、多くの石器が出土している。出土した石器は国府型ナイフ形石器などの中とする狩猟具が多く、その他のナイフ形石器をあわせるとこれまでの調査や採集により100点以上のナイフ形石器が出土していることになる。最も多くの石器が広範囲より出土していることから、県下最大の旧石器時代の集落遺跡と考えられている。~徳島県埋蔵文化財センター「レキシルとくしま」HPより引用~

椎ケ丸古墳のある宮川内谷川扇状地は古くから人が住んでいた地域だと考えられます。椎ケ丸古墳から約1.5km西には、知る人ぞ知る樫原神社もあります。

【阿波の神社を行く!】神武、橿原に立つ!神武天皇像が阿波にあるその理由に迫る!「阿波樫原神社」
徳島県のシンボルとなっている眉山。その眉山の中腹に、神武天皇像があります。神武天皇の銅像は、九州の日向国(宮崎県)と四国の阿波国(徳島県)の2体しかないと銅像横の説明板に書かれています。日向国は、日本書紀に記された神武東征の始まりの地、いわば、神武天皇ふるさとです。そこに、神武天皇の銅像があるのは理解できます。では、全国に2体しかない神武天皇の銅像の1体がなぜ阿波国にあるのでしょう。

仮に、椎ケ丸古墳が古墳時代前期の前方後方墳だとすると、4世紀ごろに造られたことになります。全長75mという古墳規模からして、大きな経済力と多くの人々を動かす支配力をもった人物だと想像できます。阿讃山脈からの水利を生かして大きな生産力を得ていたのでしょうか。

まとめ

全長75m、四国最大級の前方後円墳とされる椎ケ丸古墳を訪ねてみました。しかし、石碑は建っているものの、どこが墳丘なのかもよくわかりませんでした。椎ケ丸古墳が確実に前方後方墳であるとわかれば、全国でも珍しい貴重な古墳となることは間違いないと思います。ぜひ、発掘調査を期待したいですね。

タイトルとURLをコピーしました