【古墳を行く!】絶景!癒し!パワースポット!雄大な姿と神秘的な雰囲気がたまらない。一度は訪れたい古墳

全国古墳探訪

全国にある古墳の数は、約16万基。なんとコンビニの3倍もあるのだ。古墳散策の魅力は、その雄大さや神秘的な雰囲気にある。興味のない人からすれば、「古墳?昔の人のお墓でしょ。」ということになるが、実際に古墳の前に立てば、単なるお墓以上のものを感じるにちがいない。なにしろ千数百年前からそこにあるんだから・・・。古墳の中には、築造当時の姿に復元された古墳もあり、史跡公園となっているところもある。これまでに訪れた古墳の中から、一度は訪れたい古墳を紹介したい。

明石海峡大橋とのコントラストを楽しむ「五色塚古墳」(兵庫県明石市)

明石海峡を望む位置に作られた全長194mの兵庫県下最大の前方後円墳である。墳頂と格段には2200本もの鰭付円筒埴輪と朝顔型円筒埴輪が立てられていたと考えられる。4世紀後半の築造と考えられている。1964年から10年かけて復元された。崇高かつ壮大優美な築造当時の姿をみせる。明石海峡大橋からもその姿を確認できる。4世紀に築造された五色塚古墳と20世紀に建設された明石海峡大橋、二つの巨大建造物のコントラストも面白い。

アルプスの山々を望む「森将軍塚古墳」(長野県千曲市)

森将軍塚古墳は、長野平野を流れる千曲川の上流、善光寺平南部の千曲川両岸の古墳群の一部を成している。各地の古墳を見てきたが、美しい古墳の姿、墳丘上からの眺めは、屈指の絶景である。どこへ行っても古墳公園は閑散としているものだが、大勢の人が見学に来ているのも納得である。写真の角度から見ると後円部は正円に見えるが、森条軍塚古墳の後円部は正円ではない。地形の制約を受けて、いびつな形をしている。それにもかかわらず、後円部か正円に見えるように、後円部の裾に「貼石帯」という三日月状に石を敷き詰めた部分を設けている。築造されたのは、4世紀である。当時の技術力に驚かされる。

白く輝く姿を想像してみる「亀塚古墳」(大分県大分市)

亀塚古墳は、大分県の東部を流れる大野川と丹生川に挟まれた丘陵の先端に築かれてる。5世紀初めの築造と考えられており、全長は116m、後円部の直径は62m、墳丘は3段に築成されている。各段のテラス部には白い玉砂利を敷き、墳丘は白い石英質の拳大礫を使った葺石に覆われていたと考えられている。くびれ部にスイジガイ文様を刻んだ円筒形埴輪、朝顔形埴輪を巡らせ、後円部墳頂には、埋葬施設が2か所設けられている。石棺は長さ3.2m・幅1.1mと長さ90㎝・幅1.2mの緑泥片岩の板石を箱形に組み合わせた箱式石棺で、いわゆる「海部の石棺」といわれるものである。亀塚古墳は豊後水道を拠点に活躍した海人族の王墓にふさわしい雄大な姿を誇っていたことだろう。

榛名山の大噴火に埋もれる「八幡塚古墳」(群馬県高崎市)

5世紀後半から6世紀初めにかけて、榛名山の南麓に全長約100mの前方後円墳が3基築造された。保渡田古墳群と呼ばれている。そのうちの1基、八幡塚古墳は、葺石や埴輪列が復元整備されている。八幡塚古墳は、全長96mの前方後円墳で、盾形の周壕を含めた全長は約190mにもなる。内堀に4基の中島が築かれているのが特徴的である。約1500年前の榛名山の大噴火により、古墳群を築いた豪族一族の集落は壊滅的な打撃を受けたという。

四隅に飛び出た奇妙な形「西谷墳墓群」(島根県出雲市)

四隅にべろ~んと飛び出た突出部をもつ「四隅突出型墳丘墓」は、島根県出雲市にある西谷墳墓群の一部を構成している。西谷墳墓群は、2世紀後半から5世紀にかけて造られた総数32基の墳丘墓からなる古墳群である。そのうち6基が弥生時代後半後期(2~3世紀)に造られた四隅突出型墳丘墓である。突出部を含めると一辺が50mを超える墳丘墓は、弥生時代に造られた墳丘墓としては全国でも最大級のものである。鉄剣、首飾り、ガラス勾玉など副葬品も豊富で、この地域に大きな勢力が存在していたことを物語っている。邪馬台国の卑弥呼と同時期に大きな権力をもった王がこの地域にもいたのだ。

桐の花咲く美しい前方後円墳「心合寺山古墳」(大阪府八尾市)

大阪市八尾市にある心合寺山古墳(しおんじやまこふん)は、5世紀に築造された全長約160mの前方後円墳である。周囲を堀がめぐり、水面に映しだれた前方後円墳の姿も美しい。墳丘上には、円筒埴輪、朝顔形埴輪、菱型埴輪、盾形埴輪が整然と並ぶ。後円部には、時を経て成長した桐の大木があり、春には満開の花を咲かせる。後円部頂に登ると、河内平野が一望でき、背後には、奈良県との境の生駒山が迫る。

その規模もはや王朝級「さきたま古墳群」(埼玉県行田市)

埼玉県行田市にあるさきたま古墳群は、5世紀後半から6世紀後半にかけて築造された8基の前方後円墳と1基の大型円墳からなる古墳群である。さきたま古墳群を一躍有名にしたのは、全長120mの前方後円墳の稲荷山古墳である。稲荷山古墳の後円部頂の竪穴式石室から出土した鉄剣に、115文字の漢字が金象嵌で刻まれていたのだ。そこには、第21代雄略天皇を表すとされる「獲加多支鹵大王(ワカタケルオオキミ」に仕えていた「乎獲居(オワケ)」という人物が記されていた。鉄剣の実物が、「さきたま史跡の博物館」に展示されている。古墳群の中で唯一の円墳である丸墓山古墳は直径105mの日本最大の円墳である。丸墓山古墳は、映画「のぼうの城」で有名な忍城の水攻めで石田三成が陣をはった場所でもある。

まとめ

復元保存された古墳は、当時の技術力の高さを物語っている。その姿を目の前にすると、この巨大な建造物が1500年以上前にそこに存在していたとすると、さぞかし異彩を放つ風景だっただろうと想像できる。復元古墳は、墳丘上に登れる古墳も多く、集落があったであろう平野部を見下ろせる。墳丘上から見える山々や川の流れは、築造当時と同じであっただろうと考えると、なかなか感慨深い。

タイトルとURLをコピーしました