【歴史探索ぼっちマラニックⅣ】古代阿波の玄関口をRUNする!渡船で海人気分も味わう約16km!

歴史探索マラニック

マラソンをしながら、ピクニック気分で景色や観光地を楽しむのがマラニック。

神社や古墳は、道幅が狭くて車では行きにくかったり、また、駐車スペースがなかったりということがよくあります。

史跡巡りをしながらのランニングは、そんな心配もなし!

今回は、奈良時代の阿波国風土記にも「牟夜戸(むやのと)」と記されている鳴門市撫養町をランニングしてきました。古代から阿波の玄関口であった鳴門市撫養町には古跡旧跡がたくさんあります。なかには怪しげな伝説も・・・。海辺の町らしく、渡船も活用しての約16kmのマラニックです。

出発~妙見山 約3km

出発点は「鳴門天然温泉あらたえの湯」です。

まずは、鳴門市撫養町のシンボル「撫養岡崎城」をめざして、鳴門駅方面へと走ります。鳴門駅を過ぎて踏切のある交差点を左に曲がると正面に岡崎城が見えてきます。

手前に見える橋は「文明橋」です。明治4年に竣工し、三度の架け替えを経て、昭和13年現在のコンクリート製の橋になりました。遠くに岡崎城が見えます。

岡崎城は妙見山の頂上にあります。妙見山の麓まで来ると、大きな鳥居があり気の遠くなるような階段が頂上へと伸びています。

始めは階段の数を数えて上っていましたが、途中で分からなくなってしまいました。三百段くらいかな・・・。上りきったところに天守があります。

実はこの天守、城址の近くに造られた模擬天守で、実際の撫養城に天守はありませんでした。模擬天守は、鳴門市出身の民族考古学者の鳥居龍蔵氏の記念館で、「鳥居の城」とも呼ばれていました。現在は閉館しています。

本当の城址は、右手にある妙見神社の境内にあります。

妙見神社

本殿の右手に、石垣が残されています。よく見ると、本殿も石垣の上に建っています。

撫養城は、蜂須賀家政が阿波に入った際に、各地の防衛のために築いた阿波九城のうちの一つで、家臣の益田忠正が城番として守っていました。

さすが、阿波の玄関口の防衛の城だけあって遠くまで見渡せます。

妙見山の上は公園になっていて、小学生の頃、遠足で訪れたのを覚えています。春には桜の名所としても有名です。

妙見山~岡崎渡船乗り場 約4km

下山は妙見山の東側の道路を下っていきます。下山して突き当りの道路を左に向かうとすぐに「人丸神社」「十二神社」の矢印看板が見えるので、その狭い道を入っていきます。

人丸神社

万葉集の歌人、柿本人麻呂が祀られています。柿本人麻呂を祀る神社は全国にたくさんありますが、ここは柿本人麻呂を祀る日本三大神社の一つです。

人丸神社からしばらく東へ走ると「十二神社」の鳥居が見えてきます。

この十二神社の境内に「蜑の男狭磯(あまのおさし)の墓」があります。

男狭磯は、日本書紀に名前がある人物で、5世紀前半に実在したとされる第19代允恭天皇(いんぎょうてんのう)との関りが記されています。

蜑の男狭磯の墓

十二神社から細い道路をさらに東へと進むと、今度はなんと「清少納言の墓」と書かれた案内が見えます。

清少納言は、「春はあけぼの~」で有名な「枕草子」の作者です。

尼塚(清少納言の墓)

日本三大の「人丸神社」「男狭磯の墓」「清少納言の墓」・・・怪しすぎる史跡が一か所に集まっています。詳しくは こちら↓

清少納言の墓の矢印看板のあったところまで戻って、北に進み、山と山の間の道を入っていくと、岡崎海岸へ抜けます。

大鳴門橋までバッチリ見えます。海岸沿いには、別荘とおもわれる大きな家がたくさん建っています。

別荘を左手に見ながら走っていると、右手に岡崎海岸が見えてきます。昔はもっと砂浜があったのですが、潮流で流され、ほとんど残っていません。

岡崎海岸

岡崎海岸を通り過ぎて、岡崎渡船の乗り場へと向かいます。

岡崎渡船乗り場~土佐泊 船旅 

岡崎から土佐泊りまでは走っていくこともできますが、小鳴門橋は歩道がなく危ないのでオススメしません。

鳴門市は小島が多いので、今でも渡船が通勤通学の重要な交通手段として利用されています。この岡崎渡船の他に黒崎渡船、島田渡船の3航路が運航しています。

そしてこの渡船なんと「無料!」なんです。走ったら30分くらいかかるところを約3分で土佐泊に着きます。

ただし、運行時間が決まっているので、HPで調べてから利用することをおすすめします。そうしないと一時間以上待つことも・・・。

妙見山の頂上に岡崎城が見えます。

わずか3分の船旅でしたが、海風が心地よく、心も体もリフレッシュされます。土佐泊は大毛島にあります。

土佐泊~ゴール 約9km

土佐泊は、古くから京都と土佐を結ぶ交通の要所で、行き帰りの船が寄港していたことから「土佐泊」と呼ばれるようになったそうです。

平安時代に書かれた日本最古の日記といわれる紀貫之の「土佐日記」は、935年に土佐の国司の任を終えて都に帰る途中の55日間の記録です。

土佐日記に、紀貫之が土佐泊に立ち寄り和歌を詠んだことが記されています。その和歌の碑が潮明寺にあります。

紀貫之の和歌の碑

奥にある小さい碑が1867年に渡船場付近に建てられた碑で、痛みが激しく昭和になって建て替えられたのが手前の大きな碑だそうです。昭和に建てられた碑の文字も読めなくなっています。

戦国時代に紀貫之の碑がある背後の山の頂上に土佐泊城がありました。土佐泊城には、森氏が居城していました。長宗我部元親が阿波に侵攻してきたときに最後まで抵抗し、唯一残ったのが土佐泊城です。

頂上に城址があると案内板に書かれていたので、潮明寺の裏の道から行こうとしたら、病院の敷地になって行き止まりでした。どうやら、敷地内を通らないと行けないようで、今回は諦めました。

海辺から潮明寺へと上ってきた坂道を戻って、防波堤沿いを走っていくと「新羅神社」があります。

新羅神社

新羅と書いて「しんら」と読みます。祭神は、素戔嗚命と五十猛命です。土佐泊城主の森志摩守村春の祝祭した氏神だそうです。

再び堤防沿いを走ると「小宰相(こさいしょう)の局の墓」という看板が見えてきます。少し奥まった山道を登ったところにありました。

小宰相局の墓

1184年、源平の合戦の最中、平家の大将平通盛の妻の小宰相の局は、摂津の一の谷から讃岐の屋島へ逃げる途中で、愛する夫が一の谷の合戦で討ち死にしたことを知らされます。絶望した小宰相の局は、小鳴門の海に身を投げました。19才だったそうです。

お墓のあるところから小宰相の局が身を投げた小鳴門の海が見えます。岡崎渡船で渡ってきたところです。

小鳴門橋の下を通って高島へ渡り、さらに堤防沿いを走っていきます。水がとてもきれいでした。

高島には対岸の黒崎へと渡る黒崎渡船があります。少々疲れてきたので、渡船で渡ろうと思い、乗り場まで行くと、出向まで1時間以上あります。さすがに待てないので、高島と黒崎を結ぶ小鳴門大橋を走って帰ることにしました。

小鳴門大橋は非常に高いところに架かっていて、そこまで行くのかと思うと気が遠くなりますが、最期の力を振り絞って上ります。眺めは最高です。

小鳴門大橋をへろへろの状態でなんとか渡りきって、ゴールのあらたえの湯に帰ってきました!

まとめ

今回、約16kmのマラニックでした。海峡を渡る渡船が何といっても最高でした!

古代阿波でもいち早く海人族が居住したであろう鳴門の姿を感じることができます。

ちなみに、この辺り事代主神を祀る神社の密集地でもあります。事代主神も海人族の王だったのではと言われています。事代主神を巡るマラニックもなかなかです。

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