阿波古代史に興味がある人なら一度は手にしたことのある「道は阿波より始まる(著:岩利大閑氏)」。
「いやいやそんなはずはないやろ。」と思いながらも妙な説得力があり、「これホンマやったらすごいんちゃうん。」とワクワクと妄想がとまらなくなります。
「道は阿波より始まる」に記された応神天皇ゆかりの地を訪ねてみました。
産八幡神社

「うぶはちまんじんじゃ」と読みます。
祭神は、誉田別命(応神天皇)と息長足比賣命(神功皇后)です。
産八幡神社は、神功皇后が新羅征討からの帰国後、後の第15代応神天皇となる誉田別皇子を産んだとされる場所です。

筑紫国の宇美じゃないの?
神功皇后が、新羅遠征から帰国後、筑紫で御子を産んだ場所は、古事記では「宇美」、日本書紀では「宇瀰」と記されています。
筑紫国、現在の福岡県粕屋郡宇美町には、宇美八幡宮があり、筑紫国風土記逸文や築後風土記逸文にも神功皇后が凱旋直後に筑紫で応神天皇を産んだことが記されています。

九州説に分があるような・・・。
産八幡神社は、徳島市加茂名町海の宮という地名にあります。
境内にある燈籠には「宇㳽八幡宮」の文字が彫られています。

産八幡神社の「うぶ」も元は「うみ」ということか

実は、日本書紀の応神天皇紀には、「筑紫の蚊田で生まれた」とはっきりと地名が記されています。
それゆえに、「カダ」と推定される地名は福岡県にいくつかあり、応神天皇誕生の伝承地となっています。
「蚊田」は普通に読むと「カタ」。産八幡神社のある地域は、かつて名方郡(なかたのこおり)と呼ばれていました。

「カタ」は名方の「カタ」・・・それを言うとなんでもありになる
江戸時代に徳島藩が編纂した「阿波志」は、産八幡神社と思われる宇彌祠について、次の二つの説を上げています。
①おそらく筑紫から迎えて祀ったのであろう。
➁「宇彌」は「海」で、三代実録に貞観6年(864年)に名方郡の海直豊宗と海直千常が大和連姓を賜ったことが記されていることから、海氏の廟址ではないか。

阿波志は否定的
阿波志が②で語っているように、実は、古代に「海神社」と呼ばれていた「海神(わだつみ)」を祀る神社が、中世の武家時代に「八幡神社」へと転換したと思われる例が全国にいくつかあります。
「大宮八幡宮史(岡田米夫著)」にその例の一つとして徳島県の「産八幡神社」が取り上げられています。
古代の海岸線は眉山山麓まで迫っていたと考えられており、平安時代に編纂された「類聚三代格」にも「阿波国名東郡安曇栗麻呂」と古代の海人族である安曇氏の名が記されています。
眉山周辺に安曇氏(あずみ)や海(あま)氏などの海人族が居住していたことは間違いなく、産八幡神社も彼ら海人族が海神を祀った海神社だった可能性は十分にあります。
そのため産八幡神社は、延喜式内社の和多都美豊玉比賣神社の比定社にもなっています。
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海神社説のほうが分があるような
しかしながら、ここで少々妄想を膨らませてみますと、、、
応神天皇の母の息長足比賣命も「タラシ」の名がついていることから海人族の系譜ではないかといわれています。
海人族である息長足比賣命が後の天皇となる子を出産するにあたって、海神であり神武天皇の祖母である豊玉比賣命を祀る海神社を出産の場所に選んだということは十分考えられます。
息長足比賣命の出産を機に「宇㳽(海)宮」が「宇㳽(産)宮」に変わり、豊玉比賣とともに息長足比賣命と応神天皇が祀られることになり、中世の武家の八幡信仰全盛期に「八幡宮」となったことから本来の祭神である豊玉比賣から祭神がすり替わってしまったという妄想が成り立つのです。
神宮皇后が実在していて、新羅征討後に応神天皇を出産していたとしたら、その地はおそらく九州の筑紫だと思います。地理的にもその方が理にかなっていると思います。
しかし、阿波でもそれなりに辻褄の合う説が成り立ってしまうのが阿波古代史の面白いところです。