927年に編纂された延喜式神名帳に「阿波国 名方郡 和多都美豊玉比賣神社」と記された神社があります。延喜式神名帳に記された神社は、当時そこに確実に存在し、国から幣帛を受けていた格式のある神社のことです。
豊玉姫命は、「古事記」「日本書紀」ともに神武天皇の祖母として登場します。
延喜式内社2861社のなかで、豊玉姫命の名がつく神社は二つ記されています。その二つともが阿波にあったのです。和多都美豊玉比賣神社と天石門別豊玉比賣神社です。
皇室の歴史にとって、そんな重要な神様が、阿波にだけ祀られていたなんて・・・。しかも二つも・・・。
延喜式神名帳は、1000年以上も前に編纂された書物なので、その場所がどこなのかわからない神社が数多くあります。
「式内社の研究」のなかで、志賀剛氏は、阿波国の式内社46社のうち、社名が地名によるものは6社しかなく、残りの40社が神名によるものとなっていることに驚き、それが論社(候補)の多い理由だと述べています。
和多都美豊玉比賣神社の論者も4社あります。その4社を訪ねてみましたので、どれが延喜式内社なのか一緒に推理してみましょう。
王子神社(名西郡石井町)
王子神社は、石井町高原字桑島に鎮座する王子神社です。
東西に走る道路沿いに大きな鳥居が建っており、その奥に見える森の中に社殿があります。
久しぶりに再訪すると、境内の木々がバッサリと切られていました。
拝殿と思われたところは、神楽殿のような造りになっており、その奥に、門と塀のような建物で囲まれた一角があり、その中に本殿がありました。
なかなか変わった造りをしています。神紋は、「橘」に見えますが・・・。
境内には、推定樹齢800年の「王子のクス」があります。王子神社は、標高約10mの微高地に位置しており、吉野川の洪水のときには、このクスを頼りに人々が身を寄せたそうです。
祭神は、豊玉比売命です。「豊玉毘賣神社」という石柱が立っています。
雨降神社(徳島市不動西町)
雨降神社は、「あまたらし」と読みます。徳島市不動西町の道路わきに鎮座する小さな神社です。
しかし、社域は相当広いようで、南北に天降神社の鳥居があり、南は約500m、北は飯尾川を挟んで約700mも離れています。
社殿は、新しくモダンな雰囲気です。壁に神紋のようなものがありました。
波に囲まれて真ん中に玉があるという特徴のある紋です。神紋ならかなり珍しいデザインです。豊玉姫命は、海神の娘なので、ぴったりです。
豊玉姫命は、夫である彦火火出見尊との別れの時に、潮満玉(しおみちのたま)と潮涸玉(しおひのたま)を授けています。神紋はそれを表しているのでしょうか?
徳島県神社誌によると、もともとは雨降大明神と呼ばれていましたが、明治3年に改称したとあります。
阿波志には、「雨降祠 新居南村にあり 前に池あり 雨乞すれば必ず応ず」と記されています。雨乞すれば必ず雨が降るとは、人々の信仰も厚かったのだと思われます。
阿府志には、「和多津美豊玉姫神社 南新居にあり、俗に雨降の宮という」と記されています。これが、雨降神社を和多津美豊玉姫神社とする根拠になっているようです。
それにしても、雨降(あまたらし)とは変わった読み方をするなあ・・・。
日本書紀には、豊玉比売命は鵜茅不合葺命を生むときに龍の姿であったとされています。古来、龍は空を飛び、雲や雨を起こす霊獣とされています。そこから龍神とされ、雨乞伝説が生まれたと考えられます。
かつて、徳島城跡にあった天石門別豊玉比賣神社とされる神社も竜王神社と呼ばれていました。雨降神社も豊玉姫を祀ることから、「龍神=雨乞」として、漢字があてられたのかもしれません。
しかし、「あまたらし」には、もっと重要な秘密が隠されているかもしれません。
第5代考昭天皇の子に、天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)と日本足彦国押人(やまとたらしひこくにおしひとのみこと)がいます。日本足彦国押人はのちの第6代孝安天皇となります。2人の皇子の母は世襲足媛命(よそたらしひめのみこと)といいます。2人の皇子の名の「たらし」は、世襲足媛命に由来すると思われます。
さらに、第12代景行天皇は、大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらのみこと)、第13代成務天皇は、稚足彦天皇(わかたらしひこのすめらのみこと)、第14代仲哀天皇は、足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらのみこと)、仲哀天皇皇后の神功皇后は、気長足姫尊(おきながたらしひめ)といいます。
「たらし」は、海人族を表す言葉だという説もあります。
さらに、「随書」には、開皇20年(600年)に、倭王の姓を阿毎、名を多利思比孤、号を阿輩雞彌が遣いを送ってきたことが記されています。阿毎多利思比孤は「あまたらしひこ」という読めないこともありません。しかも、阿輩雞彌は「あわきみ」と読むこともできます。
雨降神社の雨降(あまたらし)は、単なる雨乞ではなさそうな気がしてきた・・・。阿輩雞彌は「阿波君」じゃないの?
王子和多津美神社(徳島市国府町)
三か所目は、徳島市国府町和田に鎮座する王子和多津美神社です。豊玉姫命を祀っています。
田園風景の中に造成された住宅地の一角にあります。近くに、四国八十八か所第十七番札所の井戸寺があります。このことも何か関係があるかもしれません。
神紋は「橘」です。
こちらは、「阿波志」に「延喜式小祀となす 和多村にあり 今王子と称す」と記されていることが根拠となっているようです。
産八幡神社(徳島市加茂名町)
眉山の北麓、庄山海の宮というところに産八幡神社があります。
「式内社の研究」のなかで、志賀剛は、この地が延喜式内社の和多津美豊玉比賣神社であると推測しています。
階段を登るのに少し勇気がいりそうな雰囲気の神社ですが、登ってみると、これもなかなかの雰囲気でした。
よく見ると燈籠に「宇弥八幡宮」と書かれています。祭神は、誉田別命と息長足比売命です。
あれ?祭神が違うぞ・・・。
志賀剛は、古く海岸線は、この辺りまで迫っており、地名が「海の宮」であること、さらに、阿波志に「宇弥祠荘村にあり 宇弥即ち海なり」と記されていることから、海神である豊玉姫命を祀る式内社であったとしています。
また、もう一つの天石門別豊玉比賣神社があった徳島城と近いことも理由の一つに挙げています。
この産八幡神社ですが、ここから真っすぐ北へ行くと第15代応神天皇にゆかりのある応神町があることから、神功皇后が応神天皇を産んだとされる地の「宇弥」だという説もあります。
豊玉姫命について
豊玉姫命は、海神大綿津見の娘です。初代神武天皇の祖父の彦火火出見尊(ひこほほでみみこと)の妻で、鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)を産みます。この鸕鶿草葺不合尊の子が後の神武天皇となります。
彦火火出見尊は、天孫瓊瓊杵尊の子で、兄の火酢降命から借りた釣り針を探しているときに、海神の宮に着き、そこで、豊玉姫と出会います。
私は、彦火火出見尊と豊玉姫命が出会ったのは、阿波ではないかと推理しているんですが・・・。
まとめ
延喜式内社「和多津美豊玉比賣神社」の候補地である神社の位置関係です。
王子神社と王子和多津美神社は、豊玉姫命を祭神としていますが、ともに王子権現と呼ばれていました。神紋も同じ橘紋ですから、二つの神社には何かしらの関係があると思います。
神社の名に冠された王子は、日本武尊の子の息長田別命(おきながたわけのみこと)ではなかいと思うのです。
「城跡記」の海部城(あまき)という城の項に「主将 長田別王子より世々国司の城也 今尼木という 当国府中也」と記されています。
石井の王子神社と国府の王子和多津美神社の間に「府中(こう)駅」があります。ここが、息長田別命の拠点の海部城のあったところだと思うのです。
海部城というくらいですから、海神の豊玉姫命を祀っているのは当然のことです。
海部城があったと思われるすぐ北の山麓には白鳥神社があり日本武尊が祀られています。白鳥神社は、第14代仲哀天皇が創建し、息長田別命が崇拝したと伝えられています。
また、「先代旧事本紀」には、日本武尊と弟橘媛の子として息長田別命の名が記されています。
弟橘媛・・・。橘・・・。あっ、神紋・・・。王子神社と王子和多津美神社の神紋は橘・・・これ、決まりじゃない?
ちなみに、第14代仲哀天皇も日本武尊の子です。つまり、息長田別命とは兄弟ということになります。
仲哀天皇の名は、足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらのみこと)で、皇后は、気長足姫尊(おきながたらしひめ)・・・。「おきなが」が共通しています。
もしかして、息長田別命も「たらし」がついていて、「おきながたらしわけのみこと」だったりして・・・。雨降神社の「たらし」・・・。
もしかすると、息長田別命が本拠地とした海部城の三方の海側にそれぞれ神社を建てて、海神豊玉姫命を祀って守護神とし、山側には、父である日本武尊を祀ったとすれば、なんだか辻褄があってきます。
そう考えると、どれも延喜式内社にふさわしい由緒のある神社となります。
産八幡神社は、祭神との関係から考えると、やはり神功皇后が応神天皇を産んだ「宇弥」がもとになっている勧請社のような気がします。
【参考文献】
★「古事記」倉野憲司校注 岩波文庫
★「日本書紀」全現代語訳 宇治谷 孟
★「徳島県神社誌」
★雨降神社HP
★「倭国伝」全訳注 藤堂明保 竹田晃 影山輝國 講談社(2010)
★「式内社の研究」志賀剛 雄山閣(1986)