東京上野公園と言えば、西郷さんの銅像で有名だ!その上野公園に古墳があることはあまり知られていない。しかも、全長70mの前方後円墳なのだ。
摺鉢山古墳(すりばちやまこふん)
名前の通り摺鉢を伏せたような形がよくわかる。現在の摺鉢山古墳の大きさは、全長70m、後円部径43m、前方部幅は最大で23m,後円部と道路の比高は5m、ということであるから、築造当時はもっと大きかったと想像できる。この摺鉢山古墳を中心に、いくつの円墳が確認されており、古墳時代には、上野公園一帯に古墳群が広がっていたらしい。発掘はされていないので、埋葬施設も不明である。墳丘には階段で登ることができる。後円部頂は広場になっていて、石のベンチがたくさん置かれていた。こう見ると結構広い。
かつてここにあった五條天神の創建は、日本武尊の東征に由来する。
後円部墳頂から前方部を見るとこんな感じ。その大きさがよくわかる。
摺鉢山古墳は5世頃の築造だと考えられている。ちょっと後になるが、6世紀前半の第27代安閑天皇のときに、武蔵国造の笠原直使主と同族の小杵とが国造の地位を巡って争ったと日本書紀に記されている。小杵は上毛野野氏と組んで笠原直使主を倒そうとしたが、大和朝廷に助けを求め、その支援を得て小杵を退けた。笠原氏は、現在の埼玉県鴻巣市笠原付近を本拠地とした豪族で、埼玉県行田市にある大古墳群さきたま古墳群を築いたのではないかとされている一族である。鴻巣市・行田市へ行くには、東京湾から荒川を船で上ったと考えられる。当時の海岸線は、現在よりも内陸部にあったと考えられ、摺鉢山古墳は,まさに笠原氏の本拠地へ向かう海上交通の玄関口に位置している。おそらく、小杵一族は、現在の群馬県を本拠地としていた上毛野氏と組むことで、笠原直使主を挟み撃ちにしようと考えたのではないだろうか。このことは、笠原直使主が、小杵を退けた後、横渟・倉樔・橘花(現在の横浜市付近及び周辺)多氷(現在の多摩川流域)の屯倉を設けていることからみてとれる。小杵が笠原氏の同族であったかどうか不明であるが、笠原氏の海上交通を担っていた一族であるこということはいえる。小杵摺鉢山古墳は,小杵につながる一族の首長墓であると推理してみた。しかし、証拠は何もない。残念だが、古代史の謎は、そう簡単には解けないものだ。
最近、県外に行けないので、以前訪れた古墳の写真を眺めている日々である。
参考文献「史跡説明板」「台東区HP」「日本古代氏族人名辞典(吉川弘文館)」
訪問日:2015年11月7日