中臣大鳥神社の初見について
江戸時代に編纂された「大日本史神祇志」には、諸国の式内社及び式外社のついての考証解説が記されています。
その「大日本史神祇志」の阿波国の式外社が記された「官帳不記載者」の項の一番初めに 中臣大鳥神社 という神社名があります。

ナカトミ?
阿波国の他の式外社は、「続日本後記」や「三代実録」に、朝廷より神階が与えられたことが記されていることにより、式外社となっています。
しかし、中臣大鳥神には、神階が与えられた記録はありません。
大同元年(806年) に書かれた「新抄格勅符抄」に 「中臣大鳥神 二戸 阿波」 と中臣大鳥神社に神封戸二戸が与えられたことが記されています。
神封戸とは、神社に税を納めたり、祝などの役職を務めて神社に奉仕する戸のことです。
「新抄格勅符抄」に記された阿波国の神社は中臣大鳥神社だけです。
「大日本史神祇志」は、このことから中臣大鳥神社を「官帳不記載者」として記載したのだと思われます。
阿波国の神社に関する神階授与の公式記録で一番古いものは、869年に完成した「続日本後記」に記された「承和8年(841年)天石門別八倉比賣神 正八位下→従五位下」というものです。

天石門別八倉比賣神社よりも古い!
つまり、大同元年(806年)頃、阿波国に朝廷から神封戸を与えられた中臣大鳥神社はそれなりの大きな神社だったと言えます。

そんな格式のある神社はどこにあったの?
中臣大鳥神社はどこにあったのか?
「大日本史神祇志」には、地元の人の説として
今(大日本史が編纂された江戸時代)、板野郡に在る。板野郡というのは地元の人の説による。大寺村にあり、大鳥社という。
と記されています。
また、「大寺村史」には、
大鳥社 村社 本村南ノ方字高木二鎮座スル 日本武尊ヲ祭る
と記されています。
調べたところ、現在の板野町大寺字高樹にある高樹公会堂にあったことがわかりました。跡地には、地鎮塔が残されています。


現在はもう存在しないということか
「板野郡史」によると、大鳥神社は、明治44年に板野町大寺字亀山下にある亀山神社に合祀されたことが記されています。
「元、八坂神社と称し、古衆の産土神にして祭神須佐之男尊、相殿に長慶天皇を祀る。明治初年、村社に列せられ、明治44年、村社春日神社、大鳥神社、其他、無社格4社をを合併し、社号を亀山神社と改称す。」
中臣大鳥神社の祭神について
「大寺村史」には、中臣大鳥神社の祭神は日本武尊と記されています。

中臣がついているのはなぜ?
「大日本史神祇志」には、
按ずるに、本郡は蓋し和泉大鳥社の封戸在る所、故に其の神を分祀する也
として、板野郡に和泉国の大鳥神社の封戸があるので、その神様を分祀したのだろうと推測しています。
「大日本史神祇志」の「板野郡に和泉国の大鳥神社の封戸がある」というのが何を根拠にそう記しているのか不明ですが、和泉国の大鳥神社は、延長5年(927年)の延喜式神名帳に名神大社として掲載されてます。
一方で、阿波国の大鳥神社は、延喜式神名帳に載ることはありませんでした。おそらく、そんな格の違いが「和泉国から分祀した」という推測を生んだのでしょう。
しかし、大同元年(806年)「新抄格勅符抄」には、和泉国大鳥神社にも神封戸一戸が与えられていることが記されており、806年の時点では、神封戸二戸の阿波国大鳥神社は、和泉国大鳥神社と同格もしくは格上であると思われます。

806年の時点で、和泉国大鳥神社と阿波国大鳥神社が存在していて、阿波国大鳥神社の方が格上となれば、和泉国から分祀したとは考えにくい。
和泉国大鳥神社の祭神は、日本武尊の霊が白鳥となって飛来した伝説による日本武尊説と大鳥連祖神の2説があり、現在、この2柱とも祭神となっています。
大鳥連の祖神は、「新撰姓氏録」に「和泉国 大鳥連 天児屋命之後也」とあり、祖神は、天児屋根命で、大鳥連は、中臣氏と同族ということになります。

それで、中臣大鳥神社か!
阿波国の大鳥神社の祭神は、中臣大鳥神社ですから、祭神は、中臣氏同族の大鳥連の祖神である天児屋根命であったと思われます。
和泉国大鳥神社は、延喜式に記された後も多くの崇敬を受け、和泉国一ノ宮となっています。和泉国大鳥神社の祭神に、日本武尊が加わったことで、阿波国大鳥神社の祭神も、いつしかそれに倣って日本武尊となったと妄想できます。

つまり、平安時代の初期には、阿波国板野郡に中臣一族の勢力圏があったということか!
中臣一族の痕跡(一)
中臣大鳥神社跡の南側には、西中富・東中富と「ナカトミ」の地名が残っています。

また、今はありませんが、戦国時代に「中富川の戦い」として土佐長宗我部氏と阿波三好氏の激戦が行われた、かつての吉野川の支流中富川にもその名が残っています。
中臣大鳥神社の社地であったことから「ナカトミ」の地名がつけられたのでしょう。
中臣一族の痕跡(二)
寛保3年(1743年)の「寛保御改神社帳」に、大寺村の神社として唯一記載されているのが、春日大明神で、別当が金泉寺と記されています。
これは、「大寺村史」に「春日神社 村社 本村艮(うしとら=北東)ノ方字本郷ニ鎮座ス」と記された春日神社で、春日神社もまた、明治44年に亀山神社に合祀されています。
春日神社の祭神は、合祀された亀山神社に、春日四柱神が祀られていることから、武甕槌命、経津主命、天児屋根命、比売神であったと推測できます。

ここにも中臣一族の祖神が祀られていた!
春日神社がどこにあったか不明ですが、別当が金泉寺となっていることから、現在の四国八十八か所三番札所金泉寺の近くにあったと思われます。
金泉寺は、天平年間(729年‐749年)に、行基が、聖武天皇の命を受けて建立した金光明寺がその前進であり、七堂伽藍や三十三間堂を備えた大寺院であったと言われています。板野町大寺の地名も寺院の規模の大きさから名づけられた地名です。
あくまで推測ですが、「寛保御改神社帳」に大寺村の神社として唯一記されていること、大寺院であった金泉寺が別当を務めていること、「大寺村史」で村社となっていること、などから春日神社もまた有力な神社であったと思われます。
まとめ
中臣大鳥神社は、806年には朝廷から封戸を与えられていたものの、927年の延喜式には朝廷から幣帛を受ける神社から漏れてしまいました。
このことは、その百年の間に、この地で天児屋根命を祖神とする豪族の勢いが弱まった、あるいは、この地から去ったことを示していると思われます。
ここで興味深いことがあります。
奈良時代後期から平安初期にかけての阿波国司に中臣の姓を持つ人物が二人います。
中臣常 神護景雲2年2月(768年)~宝亀3年4月(773年)
大中臣宿奈麻呂 宝亀8年正月(778年)~天応元年(781年)?
大同元年(806年)の朝廷からの封戸に影響を与えた人物かもしれません。

ただし、その後の阿波国司にも藤原の姓が結構登場します。藤原氏の始まりは中臣鎌足ですから、中臣大鳥神社の衰退にはあまり関係がないのかもしれません。
「ナカトミ」の地名から、古代中臣氏の発祥の地で大和に進出したという阿波説もありますが、さすがにそれは苦しいと思います。
ともかく、中臣一族の痕跡があることは間違いなので、この地に何らかの影響力をもっていたということは確かなようです。
