【阿波古代史資料】阿波国司について(その1)

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 記事を書くときに、阿波国司に調べることが多いので、奈良・平安の阿波国司についてここにまとめておきます。

国司とは、律令制において、中央から派遣された役人の事をいいます。「日本書紀」によると、大化の改新の翌年の646年に改新の詔が発せられ、国司を置いたことが記されています。

国司には「守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)」の四等官がありました。

阿波真人広純(あわまひとひろずみ)

任官期間 不明~斉明天皇7年(661年)在任~不明

「徳島県史」などに、「斉明天皇7年(661年)に、阿波国司真人広純が、新羅征討に加わる。」という記述があります。

「阿府志」の次の記述をもとにしていると思われます。

斉明天皇ノ朝大伴実記ニ曰昔百済国ノ福信ト云者カコニ応シテ数ヒノ人数ヲ九州及中国四国ノ軍勢数万騎百済ニ渡ル 阿波ノ国司阿波ノ真人広純五百ノ軍勢を引率シテ彼ノ地ニ至ル・・・亦阿波ノ真人広純ハ長田別皇子ノ後ニシテ此時迄モ国司ヲ執行玉フナルヘシ

長田別命は、「古事記」に登場する日本武尊の皇子の息長田別命で、「先代旧辞本紀」では「阿波君の祖」となっています。

 つまり、息長田別命からその子孫がずっと「阿波君」を務めていて、阿波真人広純がそのまま国司となったわけか・・・。

「阿府志」が出典としている「大伴実記」とは、正式には「大友真鳥実記」という江戸時代(1737年)に書かれた軍記物語です。軍記物語なので、脚色はあるにしても、架空の登場人物は登場しないと思うので、おそらく、阿波真人広純の名は何らかの書物に記されていたものと考えられます。

高安王(たかやすおう)

高安王は正確には阿波国司ではありません。

「続日本紀」に、養老3年(719年)地方行政を監督する按察使(あぜち)が設けられ、高安王が阿波・讃岐・土佐の按察使に任命されたとあります。按察使は数か国の国司から1名選ばれたらしく、高安王は、伊予守から按察使に任命されています。

高安王は、第30代敏達天皇の孫の百済王の子孫で、大宰府の長官を務めた河内王の子です。霊亀3年(717年)従五位上に昇進するも皇女との密通がバレて、伊予守に左遷させられます。それが縁で、按察使が設置されたときに、四国を監督する任に選ばれたのだと思います。

左遷を受けながらもその後は、順調に昇進し、都を警備する衛門府の長官も務めています。天平11年(739年)に、大原真人姓を与えられ臣籍降下し、大原高安と名乗っています。

万葉集に歌が載っている歌人でもあります。

高安王は阿波国司だったわけではないので、この頃は、阿波真人広純の子孫が阿波国司を務めていた可能性が高い。

豊野真人篠原(とよのまひとしのはら)

任官期間 天平勝宝5年(757年)?~天平宝字7年(763年)

「続日本紀」に、天平宝字2年(758年)に、郡領の長費救夫が、「長費」はもともと「長直」だとして、戸籍を書き換えたら、国司の豊野真人篠原が、証拠になる記録がないとしてもとにもどしてしまったと記されています。

よって、758年には、豊野真人篠原が阿波国司を務めていたことになります。

豊野真人篠原は、皇族でしたが、天平勝宝5年(757年)に臣籍降下し、従五位下を授けらています。阿波国司を務めたあと、天平宝字7年(763年)に、中央官吏の大膳亮となっています。

国司の任期は6年(のちに4年)とされていますので、おそらく、臣籍降下したした直後に阿波国司に任命され、阿波国司を務めたあと中央官吏として帰朝したと思われます。

豊野真人篠原は、中央から派遣された人物なので、息長田別命の子孫ではありません。

なお、息長田別命の子孫は、国司の任を解かれた後、那賀郡に移り住み、海部氏となったと伝えられています。

菅生王(すげおいおう)

任官期間 天平宝字7年(763年)4月~天平宝字8年(764年)10月?

天平宝字7年(763年)4月に、豊野真人篠原に代わって阿波守の任に着いたのが従五位下少納言を務めていた菅生王です。

少納言とは、朝廷の最高機関である太政官に属しており、実務も担っていましたが、天皇の侍従としての役職を兼ねていました。

菅生王は、天平神護2年(766年)に従五位上に昇進します。天平宝字8年(764年)10月には次の阿波守が任命されているので、このときは阿波守ではなかった可能性が高いと言えます。

神護景雲元年(767年)に少納言に復帰しますが、宝亀3年(772年)に、姦通罪により官位剥奪の処分を受けています。

葛井根主(ふじいのねぬし)

任官期間 天平宝字8年10月(764年)~神護景雲2年2月(768年)

天平宝字8年(764年)10月に、備中介であった葛井根主が阿波守に任ぜられます。

天平宝字8年(764年)9月に、太政大臣藤原仲麻呂が、孝謙天皇と側近の道鏡と対立し、反乱を起こします。朝廷側の指揮官となったのが吉備真備(きびのまきび)で、わずか十数日でこの反乱は鎮圧されます。

藤原仲麻呂征討軍の大将を務めたのが備前守の藤原蔵下麻呂であることから、当時備中介だった葛井根主も征討軍に加わっていたと思われ、天平宝字8年(764年)10月の阿波守任は、論功行賞であったと考えられます。

葛井根主は、神護景雲元年(767年)に二階級昇進し、外正五位下となります。外位とは、地方豪族や農民から役人となった者に与えられた位で、外正五位下は、外位では上から2番目の位になります。

神護景雲2年(768年)には、阿波守の任を解かれ、衛門大尉となり都での官職に任ぜられています。さらに、宝亀2年(771年)には、中央豪族や貴族に与えられる内位を得て、従五位下に叙せられています。

このことから、葛井根主は武官としてかなりの実力者であったことがうかがえます。

中臣常(なかとみつね)

任官期間 神護景雲2年2月(768年)~宝亀3年4月(773年)

神護景雲2年(768年)2月、葛井根主に代わって阿波守に任ぜられたのが中臣常です。

中臣常は、古代からの有力豪族であった中臣氏で、父は、祭祀を司る神祇官の長官を務めた中臣広見です。

つまり、中臣常は、葛井根主とは正反対のエリートということになります。

宝亀3年(772年)4月に、玄葉頭に任ぜられています。玄葉頭は、玄葉寮と外国使節の接待などを司る役所の長官で、官位相当は従五位上になります。その後は、正五位下まで昇進しています。

大伴村上(おおとものむらかみ)

任官期間 宝亀3年4月(773年)~宝亀8年正月(778年)?

宝亀3年4月(773年)に、中臣常に替わって阿波守に任ぜられたのが大伴村上です。

大伴村上については、あまり詳しいことがわかりませんが、天平勝宝6年(754年)民部少丞のきに、万葉集の編者の大伴家持邸で年賀の歌を詠んだことが記録に残っています。

民部少丞は、民部省の三等官で官位は従六位上なので、若くして若の才能があったのでしょう。

宝亀2年(772年)に、従五位下となり、翌年に阿波守に任ぜられています。

その後は、よくわかりませんが、万葉集に大伴村上の歌が四首掲載されています。

大中臣宿奈麻呂(おおなかとみのすくなまろ)

任官期間 宝亀8年正月(778年)~天応元年(781年)?

宝亀8年正月(778年)に、阿波守に任ぜられたのが大中臣宿奈麻呂です。

大中臣宿奈麻呂は、中臣朝臣から大中臣朝臣へと改姓したもとは中臣氏の一族です。

右大臣を務めた大中臣清麻呂の子で、大中臣宿奈麻呂も超エリートです。

大中臣宿奈麻呂は阿波守任官中に、従五位上、正五位下と昇進しましたが、父より早く亡くなったとされており、任期中の天応元年(781年)に次の阿波守が任命されているので、阿波守任官中に亡くなった可能性もあります。

藤原弓主(ふじわらのゆみぬし)

任官期間 天応元年5月(781年)~延暦元年(782年)

天応元年(781年)に、阿波守に任ぜられたのが藤原弓主です。

藤原弓主は、宝亀10年(779年)に従五位下に叙され、天応元年(781年)に、従五位下のまま天皇の警護を担う左兵衛府の次官である左兵衛佐兼阿波守に任ぜられています。

兵衛佐は上流貴族の出世コースですが、翌延暦元年(782年)には、兵衛府よりも重要度の低い宮門や役所を警護を担う衛士府の右衛士佐兼伊予介に任ぜられています。これは、事実上の降格とみられ、阿波守も罷免されたと思われます。

何かやらかしたか・・・。

藤原弓主の父は、従三位参議藤原巨勢麻呂で、天平宝字8年9月(764年)に起こった藤原仲麻呂の乱で惨殺されています。

☆藤原仲麻呂の乱

藤原仲麻呂の祖父は、天皇の外祖父として絶大な権力を誇った藤原不比等です。不比等の子は藤原四兄弟として朝廷の要職を独占しますが、天平7年(737年)に都で大流行した天然痘の流行により四兄弟をも病死してしまいます。

不比等の長男藤原武智麻呂の次男であった藤原仲麻呂は、父の病死後、叔母であり聖武天皇皇后の光明皇后の信任を得て順調に昇進し、天平11年(743年)には、従四位参議に昇進します。

光明皇后の子の孝謙天皇が天皇になると、その勢いは増し、自分と関係の深い淳仁天皇を即位させると、自らは太政大臣となり、名実ともに最高権力者となりました。

しかし、孝謙上皇が道鏡を寵愛するようになると、藤原仲麻呂との対立が激化し、ついには、藤原仲麻呂は朝敵として討伐を受けることになります。この乱により、藤原仲麻呂の兄弟は、戦死又は流罪などの処分を受けました。藤原弓主の父の藤原巨勢麻呂もその一人でした。

藤原弓主は、まだ幼かったために処分を免れたと思われますが、父が朝敵であったということがあり、不遇の日々を送ることとなったのかもしれません。

川村王(かわむらおう)

任官期間 延暦元年正月(782年)~延暦6年2月(787年)?

延暦元年(782年)正月に、阿波守に任ぜられました。

川村王は皇族で、宝亀8年(779年)には、天皇の侍従を務める従五位下少納言となります。

しかし、3年後には阿波守として地方官となり、6年の任期を終え、帰京するも少納言よりも下部組織の右大舎人頭に任ぜられ、翌年には再び備後守として地方官を務めています。

その後、従四位下まで昇進するも、役職は、内匠頭という従五位下相当であったので、それほど有能ではなかったのかもしれません。

雄倉王(おぐらおう)

任官期間 延暦6年2月(787年)~?

延暦6年2月(787年)に、阿波守に任ぜられました。

雄倉王は、天武天皇の子であり日本書紀編纂を任された舎人親王の孫にあたる人物で、延暦3年(784年)に従五位上となり、翌年に少納言となります。

菅生王、川村王と同じように少納言から、延暦6年(787年)に阿波守となっています。もしかすると、そういうルートがあったのかもしれません。

阿波守をいつまで務めたかは不明ですが、延暦8年12月(789年)に阿波守だった記録があります。

その後、延暦18年(799年)に、天皇の食事を担当する内善司の長官である内膳正に任ぜられています。内膳正の官位相当は正六位上なので、従五位上の官位をもつ雄倉王にすれば閑職だったのかもしれません。

「林町史」には、雄倉王は「西拝師梅川内に国庁を開き阿波国を治めた。」とあります。西拝師梅川内とは現在の阿波市阿波町梅川内になります。

 いやいやさすがにここに国庁は置かないだろう・・・。

さらに、「延暦19年(798年)に兵部大輔兼武蔵介藤原朝臣道雄が阿波守となったので、雄倉王は桜の宮に移った。」とあります。梅川内の北には桜ノ岡という地名もありますが、「日本後紀」には、雄倉王は、延暦18年(799年)に、中央官吏の典薬頭、その後、内善正になったとありますので、「林町史」の記述はかなり怪しいことになります。

藤原真作(ふじわらのまつくり)

任官期間 延暦14年(795年)頃?

藤原真作は、従三位参議藤原巨勢麻呂の子で、父方の祖父は、右大臣藤原不比等の長男正一位左大臣藤原武智麻呂、母方の祖父が右大臣藤原不比等の三男正三位参議藤原宇合です。

天応元年(781年)に阿波守となった藤原弓主の異母弟になります。

延暦3年(784年)従五位下、延暦4年(785年)従五位上と昇進し、延暦9年(790年)には、大蔵省の次官である正五位下相当の大蔵大輔となりました。

その後、三河守、阿波守を歴任していますので、阿波守となったのは延暦14年(795年)頃だと思われ

ます。

藤原伊勢人(ふじわらのいせんど)

任官期間 延暦15年(796年)頃

鞍馬寺縁起に、延暦15年(796年)に造東寺長官の藤原伊勢人が鞍馬寺を建立したとあります。このときに阿波守も務めていました。

藤原伊勢人は、藤原弓主・藤原真作の異母兄弟です。

 藤原仲麻呂の乱で惨殺された藤原巨勢麻呂の庶子が3人とも阿波守を務めているのも何かの縁?

藤原文山(ふじわらふみやま)

在任期間 ?

「太龍寺縁起」に、「延暦17年5月(798年)桓武天皇の勅願で阿波国司藤原文山が伽藍を建立した」との記載があることから、阿波国司を務めていたことになってますが、弘仁元年(810年)従五位下の叙爵の記録があるので、10年以上前に阿波国司を務めていたとすることには少々無理があります。

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【阿波古代史資料】阿波国司について(その2)
阿波国司について、その経歴などをまとめてみました。

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