徳島県南部の海部川の河口、大里海岸に近い平野部に大里古墳がある。崩壊しかけていた古墳が復元整備されたらしい。これは、捜査せねばなりませぬ。
これは2014年8月に捜査したときの大里古墳の姿だ。木に覆われていている。墳丘は何処だ?
反対側に回ると横穴式石室が開口していたが、崩壊寸前の危険な状態。鉄パイプの補強が痛々しい。
現地説明板より(徳島県教育委員会・海陽町教育委員会)
2020年1月に捜査したときの大里古墳がこちら。盛土により墳丘が復元されている。祠と石碑の位置は同じ。
以前、墳丘上に転がっていた巨石は、羨道部の天井石だったのか!玄室内部は、崩壊を防ぐために、土嚢が詰められている。
大里古墳は、徳島県南部地域最大の古墳である。6世紀末というと第33代推古天皇が即位した頃である。その頃に、海部川流域を中心にこの地方一帯を支配していた首長墓だと考えられている。
935年に紀貫之が書いた土佐日記には土佐から京都までの旅程が記されている。土佐から室戸岬を回って鳴門までの海路で帰京しているが、土佐の室津を出てから阿波の土佐泊までに着く間の8日間は海賊の恐怖におびえる様子が描かれている。
大里古墳のある海部川流域は、戦国時代に海部氏が一帯を支配していた。また、鎌倉時代から室町時代にかけて倭寇として中国・朝鮮と盛んに交易を行っていた。海部氏は、航海術にたけていた海人一族であったのだ。
海部氏の祖は鷲住王であるとする説がある。鷲住王は日本書紀の第17代履中天皇紀に登場する人物で、履中天皇の妃の兄であり、讃岐国造及び阿波国脚咋別の祖である。鷲住王或いは家臣が、5世紀頃に海部川州域を開拓し、その後、領地を守るために武士団化したのが海部氏であるという。
海部氏が倭寇として当時の政府未公認の貿易を行っていたとすれば、都とは一線を画した存在だったのであろう。紀貫之の土佐日記には、室津から土佐泊までの間の港の名前が記されていない。港には立ち寄らずに沖合に停泊していたのではないだろうか。
阿南市の八鉾神社には、紀貫之が那賀川河口で停泊し、そこから海賊からの無事を祈願したという伝説がのこっている。海賊は夜は追ってこないので夜に船を進めるとも書かれている。紀貫之が,海賊として恐れたのは一帯を支配していた海部氏かもしれない。
大里古墳は6世紀後半の築造であるから、5世紀にこの地に入った鷲住王の家臣一族の数代あとの人物が被葬者ということになる。およそ1世紀かけて開拓と交易により古墳を築造するまでの支配力をもつにいたったと考えられる。
徳島県内の復元古墳は大変珍しいので一度訪れてみてほしい。海陽町立博物館にも寄ってみた。石室の原寸大ジオラマは、思ったよりも大きく、古墳の被葬者の支配力が垣間見えた。