眉山(びざん)から尾根続きに南東にせり出した勢見山(せいみやま)の山頂に古墳があり、その墳丘には 天武天皇中宮摩耶姫命之墓 という石碑が建てられいます。


天武天皇の中宮?中宮というと天皇の妻ということになるが。
石碑の傍らには「奥津城由来記」として解説もあります。
この奥津城にまつられてある方は天武天皇の中宮であった「摩耶姫」であります。姫は当時「壬申乱」という内乱に際して相手の軍に捕らえられて「いわねひこ」という者に連れられて都から阿波国の琴弾山に来られました。その時、姫は懐妊中でありましたので気が転倒して遂に悶死されたのであります。よってこの地に奥津城を築いて丁寧に葬ってあったのであります。時代の変遷に伴ってこの奥津城を顧みるものもなく、見るかげもなく荒れてしまっておりましたので、ここに修復を行い、その祭祀をつづけることにしております。
天武天皇は673年から686年まで皇位についた第40代天皇です。大化の改新で有名な中大兄皇子が天智天皇の弟で、大海人皇子と呼ばれていました。大海人皇子は672年、天智天皇から皇位を継いだ大友皇子に対して挙兵します。これが「壬申の乱」です。結果は大海人皇子の勝利に終わり、大海人皇子が天武天皇として即位することになります。
さて、摩耶姫ですが、天武天皇の皇妃に摩耶姫なる人物はいません。摩耶姫は敵軍に捕らえられて「いわねひこ」なる将に阿波に連れてこられたとありますから、「いわねひこ」は大友皇子軍ということになります。この「いわねひこ」も全くだれか分かりません。

それにしても、なんで、阿波まで連れてこられたんだ?
「壬申の乱」は、大和国吉野宮を拠点とする大海人皇子と近江国大津宮を拠点とする大友皇子の戦いです。しかし、吉野宮は三好市三野町加茂宮、大津宮は鳴門市大津町大津宮であるとして、壬申の乱の舞台は阿波だった的な説があります。

摩耶姫は阿波で捕らえられた?
「壬申の乱」はかなりの激戦であったことが伝えられていますから、「摩耶姫」が捕らえられて人質として琴弾山に連れてこられたのかもしれません。この琴弾山がどこを指すのかもわかりません。「摩耶姫」「いわねひこ」ともに誰か全くわからないので、真偽のほどは謎のままです。
「徳島の遺跡散歩(徳島市民双書19)」には、「摩耶姫命之墓」と称される塚は勢見山古墳といい、長さ約4m、幅約80㎝の竪穴式石室をもつ古墳であると記されています。形状は前方後円墳の可能性もありますが墳丘の崩壊が激しく不明で、銅鏡と筒形銅器が出土し、4世紀後半の築造と推定されています。

ん?摩耶姫が実在したとして7世紀、古墳の築造は4世紀・・・。

勢見山古墳の推定築造年代から考えると、どうやら勢見山古墳に葬られているのは摩耶姫ではないようです。もっとも勢見山古墳の築造から約300年後のことですから、古墳のあったところに摩耶姫が埋葬されたという可能性はあります。
この勢見山ですが、もともと勢見山と呼ばれていたわけではありません。
眉山の東側、大道と呼ばれる県道を南へ向かうと、ひときわ大きな鳥居と石灯篭が見えてきます。金刀比羅神社です。

金刀比羅神社は、元和二年(1616年)に徳嶋藩主蜂須賀家政が、徳島城の守りを固めるために城下の鎮守として勝浦郡西須賀村(現在は徳島市西須賀町・勝占町)の勝占神社境内にあった金刀比羅神社を奉遷したものです。
勝占神社もまた歴史ある神社で平安時代にまとめられた延喜式神名帳にもその名があります。勝占神社がある山は源義経が屋島攻めの際に、山に登って自分の軍勢を見たことから勢見山と呼ばれていましたが、金刀比羅神社を遷座したとき、山の名前も一緒に遷したとのことです。
眉山は、古くからの信仰の場で、阿波古代史好きにはたまらない場所です。
その山頂には、溶造皇神社(ようぞうすめらのじんじゃ)という変わった名前の神社があり、なんと、スサノオノミコトも祀られています。
