【妄想の阿波古代史】仲哀天皇、阿波国伊太乃郡高野郷で急死!阿波国にあった仲哀寺とは?

阿波古代史を妄想する!

阿波古代史に興味がある人なら一度は手にしたことのある「道は阿波より始まる(著:岩利大閑氏)」。

「いやいやそんなはずはないやろ。」と思いながらも妙な説得力があり、「これホンマやったらすごいんちゃうん。」とワクワクと妄想がとまらなくなります。

その「道は阿波より始まる」にこんな記述があります。

仲哀天皇 伊太乃郡高野郷で急死。この地に弔い寺として建立されたのが仲哀寺

 いやいやさすがにこれは・・・。とりあえず調べてみますか・・・。

まずは、第14代仲哀天皇の基本情報から

父:倭建命(やまとたけるのみこと)

母:布多遅能伊理毘賣命(ふたぢのいりびめのみこと)※第11代垂仁天皇の娘

名:帯中津日子命(たらしなかつひこのみこと)

 倭建命の御子なんだ。倭建命は何かと阿波との関係が深い人物・・・。

仲哀天皇 皇位継承の謎

成務天皇の前の第12代景行天皇には80人も子がいて、そのうち若帯日子命(ワカタラシヒコのちの成務天皇)、倭建命(ヤマトタケルノミコト)、五百木入日子命(イホキイリヒコノミコト)が太子候補でした。若帯日子命と五百木入日子命は実の兄弟ですが、倭建命は異母兄弟です。

古事記には、成務天皇には、穂積臣の祖、建忍山垂根の娘の弟財郎女との間に和訶奴氣王(ワカヌケノキミ)という子がいたと記されています。

本来なら、成務天皇の跡継ぎは実子である和訶奴氣王となるはずですが、なぜか倭建命の子の帯中日子命(タラシナカツヒコノミコト)が太子となり、第14代仲哀天皇となります。

実は、日本書紀には、成務天皇には子がなく成務天皇48年に帯中日子命が太子になったと記されています。

 古事記に妻の名やその出自まで書かれているのに、いなかったことにするとは・・・皇位継承争いがあったのでは?

古事記の仲哀天皇の段は、いきなり

帶中日子天皇、坐穴門之豐浦宮及筑紫訶志比宮、治天下也。

で始まります。

日本書紀には、皇位を継いだ帯中日子命が穴門豊浦宮や筑紫訶志比宮に宮を置くことになった経緯が細かく記されています。

2年2月 角鹿笥飯宮(つぬがけひのみや)

2年3月 紀伊国徳勒津宮(きいのくにところつのみや)

2年9月 穴門豊浦宮(あなととようらのみや)

8年正月 儺県橿日宮(なだのあがたかしひのみや)

 結構転々としているなあ・・・。これヤマトは大丈夫?

表向きは熊襲が従わないので征討のための移動になっていますが、結局、仲哀天皇は、ヤマトに宮を置くことなく亡くなっています。こうなると、仲哀天皇は皇位を継承していなかったのではないかという疑念さえわいていきます。

仲哀天皇の謎の死

古事記によると、仲哀天皇は、筑紫訶志比宮にて熊襲征討について神霊の神意を受けるための儀式を行っています。

仲哀天皇が琴を弾き、大臣の建内宿禰(たけのうちのすくね)を請負人として、息長帯比賣命(神功皇后)に神憑りさせるというものでした。

息長帯比賣命に降りた神は「西の方に金銀財宝が多くある国があるのでその国を帰属させよう。」と言いましたが、仲哀天皇はこれを信じず、偽りを言う神だと琴を弾くのをやめました。大臣の建内宿禰に促されてもう一度琴を弾きはじめるも、その途中で琴の音が途絶え、見ると仲哀天皇は息絶えていたというのです。

 神の神託を信じなかったので神の怒りに触れて亡くなった・・・いやいや、建内宿禰と息長帯比賣命による暗殺の匂いがぷんぷん・・・。

日本書紀は、突然の病で亡くなったように記しています。また、一書では、自ら熊襲との戦闘に出て、矢を受けて戦死したと記されています。

いずれにしろ、その後、仲哀天皇の死を隠して進軍し、さらに、神の神託通りに新羅を攻めているのですから、陰謀説はぬぐえない気がします。

阿波にあった仲哀天皇の弔寺 仲哀寺とは?

「道は阿波より始まる」では、仲哀天皇は、伊太乃郡高野郷で急死し、弔寺として建立されたのが仲哀寺であると書かれています。

現在の板野郡に仲哀寺というお寺は存在していません。

しかし、徳島藩が西暦1800年頃に編纂した「阿波志」の板野郡の項に、

八幡祠 在矢武村舊有仲哀寺管之

とあり、板野郡矢武村の八幡祠の別当が仲哀寺であったことが記されています。

板野郡矢武村の八幡祠とは、現在の矢武八幡神社です。

徳島県神社誌によると、「武内宿禰に縁由の地により、男山より当国紀氏が勧請祝祭した社」とあります。祭神は、応神天皇、仲哀天皇、神功皇后となっています。

矢武八幡神社を訪ねてみると、隣に大きなお堂が建っていて、そこに仲哀寺のことが書かれていました。

永禄年間(1558-1570)に矢武西に金剛院専勝寺が開基される。御本尊は阿弥陀如来。元和年間(1615-1624)に矢武中にあった仲哀寺を当院が兼務する。寛文年間に仲哀寺を当院に合寺する。その後、専勝寺の寺号がなくなり、如意山金剛院となり、現在に至る。

板野郡誌には、「仲哀寺址」として次のように書かれています。

仲哀寺は矢武八幡神社附近同社にして、応神山仲哀寺と称する名刹にして、開基は天暦2年(948年)阿波権守出家して名を宥鎮と改め興立せしより連綿たりしが、永禄(1558-1570)の頃住職勢海(俗性小笠原)が土佐勢の仇をなせしが勢海逃れて勝瑞城に入りたり。この時宝物ことごとく焼失して勢海法弟宥尊矢武八幡を守護したりが明暦元年(1655年)顯德寺と改号後蓮教寺に合併したり

 仲哀寺の山号が「応神山」というのもすごい!天皇の名前が二つも入っている・・・それにしても宥鎮はなぜ仲哀寺を建立したのか?

仲哀寺を建立した宥鎮とは?

宥鎮なる人物を調べてみると、同じ名前の人物は、室町時代や江戸時代の僧正として存在しますが、10世紀の宥鎮についてはよくわかりません。

権守(ごんのかみ)とは、正規の人数を越えて任命された国司のことで、つまり宥鎮は阿波国司を務めていたことになります。

仲哀寺が開基された天暦2年(948年)以前に、阿波国司を務めていた人物に紀延年という人物がいます。

承平3年(933年)に、阿波国司を務めていた紀延年が、死亡した百姓の口分田を耕作する者がいないので税を治めることができないと申し出たのに対し、勘解由使から耕作能力のある百姓に口分田をあてがい税を徴収するべきだと指導を受けたという記録が残っています。

紀延年は、延喜8年(908年)に能登国司を務めていますから、阿波国司を務めていた頃は、すでに高齢だったと考えられます。

これはあくまで推測ですが、仲哀寺が別当を務めていた矢武八幡神社を勧請したのが紀氏であることからして、仲哀寺を開基した宥鎮とは、国司を引退後そのまま阿波に残った紀延年ではないかと思うのです。

紀氏は、建内宿禰の子の木角宿禰(きのつののすくね)を祖としており、建内宿禰は、仲哀天皇の大臣で、仲哀天皇の死に深くかかわる人物です。出家した紀延年が仲哀天皇を弔う仲哀寺を開基したのも何らかの所以があってのことでしょう。

矢武八幡神社の地に石清水八幡宮を勧請した理由が、建内宿禰の縁由の地ということだけどどういうこと?

建内宿禰縁由の地の意味を探る

「道は阿波より始まる」では、朝鮮半島出兵での軍功により建内宿禰が神功皇后より拝領したのが上板町神宅(かんやけ)で、矢武八幡神社は建内宿禰の宮殿跡だと記されています。

社記が建内宿禰縁由の地としているとはいえ、さすがにそれは・・・。でも、どんな縁由があるんだ?

「阿波名勝案内」(明治41年)に大山村西分字池田(現在の上板町西分字池田で矢武八幡神社のすぐ西)に、「船の本」と称し、船の形の土地があり、鍬を入れると神罰があたるというので放置しているため草が生い茂っていると記されています。

「船の本」大山村西分字池田に古来船の本と称し、船の形を為せる土地(三畝十二歩)あり。雑草繁茂するも若し鍬を入れると時は神罰を蒙るべしとて其のままに存置しあり。口碑伝ふる所によれば山城男山八幡宮の山下に武内大臣の社あり、船の形に擬して作れり、船の本また之に倣うて作れるものなるべく、此地武内宿禰の舊領なればその遺址を存せるならむと、其の附近また松の本綱の本等点々存在せり・・・

建内宿禰の領地だったと書いてある・・・。

「阿波名勝案内」には、矢武八幡神社附近にある名勝として「千壺」が掲載されています。地中を掘ると次から次へと壺が出てくることから「千壺」と呼ばれたそうです。

 地中から壺、船形の土地・・・もしかして・・・。

徳島の郷土史家であり考古学者でもある笠井新也氏は、「船の本」と「千壺」から船形の土地は前方後円墳の形が崩れたもので、辺りから出てきた壺は古墳に飾られたものではないかと推察しています。「掘ったら神罰が下る」というのも、古代からの神聖な場所というのが何となく伝えられてきたからだと考えられます。

日本書紀によると、神功皇后は朝鮮半島出兵から帰り、品陀和氣命(ホムダワケノミコト※のちの応神天皇)を産んだ後、穴門豊浦宮(あなととようらのみや)からヤマトに戻るときに、次の皇位が幼い品陀和氣命に決まるのを恐れた仲哀天皇の子の香坂王と忍熊王が播磨で待ち伏せしているとの情報を得て、建内宿禰の進言で、瀬戸内海を通らずに、南海を廻って紀伊水門に向かっています。

南海を廻って紀伊水門へ向かうには、阿波国の東海岸沿いを沿って進み、鳴門から淡路そして紀伊へと進んだと考えられます。矢武八幡神社の東に、古代から交通の要所として知られていた「郡頭(こおず)」という地名があります。

もしかすると神功皇后の軍勢は、香坂王と忍熊王の動向を探るために、しばらく阿波国に滞在したのではないでしょうか。阿波国の東部に神功皇后や応神天皇、建内宿禰の痕跡が残っているのもそのためかもしれません。

阿讃山脈が風よけとなる郡頭付近は、ヤマトへ向かうための大船団の停泊地として非常に都合のよい場所と言えます。船団の将としての大臣建内宿禰が矢武八幡神社附近を拠点にしていたことも十分考えられます。

まとめ

「道は阿波より始まる」に記された、仲哀天皇 伊太乃郡高野郷で急死。この地に弔い寺として建立されたのが仲哀寺 について検証してみました。

仲哀天皇がこの地で急死したのというのにはかなり無理があると思われます。

しかしながら、朝鮮から帰国した神功皇后の軍勢が穴門豊浦宮からヤマトへ向かう途中でこの地に立ち寄ったということは十分考えられます。

仲哀天皇は、筑紫訶志比宮で崩御し、遺体は建内宿禰によって穴門豊浦宮へ運ばれ、殯(もがり)されています。仲哀天皇の御陵は河内に築造されている訳ですから、仲哀天皇の遺骨も建内宿禰が穴門豊浦宮から船で運んだと考えられます。

建内宿禰が一時拠点とした矢武八幡神社附近に、後世「船の本」と称される前方後円墳を築き、仲哀天皇の遺骨を仮埋葬していたとしたら・・・。

その地に後世、建内宿禰の末裔の紀氏一族の紀延年が、引退後に余生を祖先ゆかりの地で仲哀天皇の霊を弔って生きることを選択していたとしたら・・・。

この妄想なかなか辻津があっていると思いませんか?

タイトルとURLをコピーしました