【阿波の神社を行く!】超巨大な鳥居跡があった?皇室もお忍びで訪れた!延喜式内社「八桙神社」

阿波の神社を行く!
 927年に編纂された延喜式神名帳には、朝廷より幣帛を受ける全国の神社2861社(3132座)が記されています。それらの神社は式内社と呼ばれ、927年の時点で確かにその場所に存在していた由緒ある神社です。
ちゃぼたつ
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延喜式神名帳に「阿波国 那賀郡 八桙神社」と記されている神社が、徳島県阿南市長生町宮内にある八桙神社(やちほこのじんじゃ)だ。祭神は、大己貴命と少名彦命。この神社に平成3年、当時の皇太子殿下、今の天皇陛下が訪れている。なぜ?これは、捜査せねばなりませぬ。

神社由緒

一、八桙神社は上古長ノ国造の祖神として竹原庄要津に鎮座す。長ノ国は北方粟ノ国と相対して阿波民族の源を形成す。
一承平4年朱雀天皇の御宇歌聖紀貫之土佐守の任満ちて上洛の途上南海水道にさしかかりし時、豪勢なる海賊に出逢い航行不能となる直ちに那賀川河口に碇泊西潟なる竹原庄の要津に松壖栢城高く聳え立ち威光海上を圧する八桙大明神に祈願奉幣す。
一長寛元年9月25日関白左大臣大将正二位藤原基実卿後白河上皇の勅命を承け、法華八講料として免祖水田5段と紺紙金泥法華経一部八巻合わせて5種12巻を奉納し、この善根に依り、後白河上皇二条帝の宝祚を寿命長遠に併せて二品家一門の神徳冥助を乞い並びに南海水道の海上安全を祈願す。

長ノ国造の祖神を祀る!

八桙神社の祭神は、大己貴命・少名彦命です。大己貴命は、スサノオノミコトの子孫で、少名彦命とともに「葦原中ツ国」を治めた人物です。大国主命というと聞き覚えのある方もいるでしょう。大国主命の神話は、古事記に数多く登場します。古事記には、大国主命には5つの名前があった書かれています。その一つに、八千矛神(ヤチホコノカミ)という名があります。八桙神社の名は、神名から名付けられたものです。

ちゃぼたつ
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神社由緒にあるように、八桙神社が長の国造の祖神を祀っているとすれば、長の国造の祖神は大国主命ということになる。かつて阿波国には、粟国と長国の2国があり、第13代成務天皇の御世に、観松彦色止命九世孫韓背足尼が国造を賜っている。つまり、長国一帯を支配していた豪族は、大国主命を祖神とする豪族で、韓背足尼の代にヤマト王権に帰順し、国造に任ぜられたと考えられる。

紀貫之も神威に祈った!

八桙神社のある八桙山は、古代は、海岸線に突き出た半島であったと考えられます。要津(かなめづ)は、おそらく港で、当時の船は、陸伝いに風待ち風よけをしながら航行していました。紀貫之の書いた土佐日記には、八桙神社に奉幣した記述はありませんが、承平4年12月に土佐を出帆し、翌年1月に室津から鳴門土佐泊りに至る途中で、海賊対策の神頼みを行っていることが記されており、神社由緒の記述と一致します。

藤原基実の法華八講

長寛元年(1163年)に藤原基実が後白河上皇の勅命を受けて法華八講を行っています。長寛元年当時の藤原基実の官位は、関白左大臣大将正二位でした。また、後に藤原基実は、平清盛の娘を妻としています。朝廷の権力者が、勅命を受けて奉納を行っていることからも八桙神社の神格がうかがえます。

2017年12月3日徳島新聞に、八桙神社に関する記事がありました。

八桙神社が所蔵する平安時代の書物『紙本墨書二品家政所下文附紺紙金泥法華経八巻』(国指定重要文化財)の金泥文字に真ちゅうが含まれていることが、修繕に伴う科学調査で判明した。真ちゅうが国内で普及したのは江戸時代以降というのが定説で、法華経も金粉を用いて書かれたとされてきた。平安時代の真ちゅうの使用が明らかになったのは国内3例目で、同時代の使用を裏付ける貴重な資料になりそうだ。
ちゃぼたつ
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「紙本墨書二品家政所下文附紺紙金泥法華経八巻」とは、長寛元年に藤原基実によって奉納されたものだ。記事の写真を見るとなかなか立派なもので、相当貴重なものである。今の社殿に奉納されたとは考えにくく、当時は相当な社殿を有していたと考えられる。石段を登り切った所に現在の社殿がありますが、非常に質素な社殿で、現在は、神社由緒にあるような神威とは少々かけ離れた感じがする。

皇太子殿下が行啓!

平成3年に、当時の皇太子殿下、現在の天皇陛下が八桙神社を行啓されています。伊勢神宮や出雲大社ならわかりますが、八桙神社に何があるというのでしょうか?

天皇家の祖である天照大神の子孫に国を譲った大国主命は、葦原中つ国を譲る代わりに大きな宮殿を要求しています。それが、島根県にある出雲大社であるとされています。

江戸時代に書かれた阿府志には、次のような記述があります。

宮内村は古の神領であり、上古の鳥居跡あり地中に埋まる。一丈五尺廻り(約四・五m)二中の間二十間(約三十六m)
ちゃぼたつ
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本当であれば、信じられないほどの大鳥居があったことになる。国譲りの際に、大国主命のために作られた宮は、この地に作られたのではないかという妄想もうかんでくる。皇太子殿下は次期天皇として何かを伝えられ、それを自ら確かめるために訪れたのか?

まとめ

ちゃぼたつ
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巨大鳥居跡、紀貫之が海上から祈ったという高く聳え立つ社殿、当時の最高権力者が奉納した経典、そして皇太子殿下の行啓と、この八桙神社、現在の姿からは想像もできないような何か大きな秘密が眠っているとしか思えない。もしかして、本当に、古事記の神話に描かれた天孫族と出雲族の攻防は、この地で起こったことなのかもしれない。そう簡単には、古代史の謎は解けないものだ。

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