「いびらめじんじゃ」と読みます。
延喜式内社でもないこの神社、誰が祀られているのかを知らなければ、「ふ~ん。変わった名前の神社やなあ。」で終わっていたかもしれません。
徳島県神社誌によれば、祭神は、阿比良比咩命、大己貴命、素戔嗚命となっています。
阿比良比咩命とは?
阿比良比売は、古事記によると、初代神武天皇が、日向国に居て、まだ神倭伊波禧毘古命(かむやまといわれひこのみこと)といわれていたころ、妻としていた女性です。古事記では、阿多小橋君の妹となっています。
阿比良比売は、神倭伊波禧毘古命との間に、多芸志美美(たぎしみみ)と岐須美美(きすみみ)を産みました。多芸志美美はのちの神武東征に参加しています。阿比良比売については何も書かれていませんから、日向国に残ったものと思われます。
日向国の阿比良比売が、なぜ、阿波で祀られているのでしょうか?
しかも、阿比良比売が神社名となっている神社は全国でここだけなのです。
延喜式外社ではあるものの、三代実録によると、阿比良比咩神は、872年に従五位下を授かっています。つまり、その歴史も古く、それなりの格式をもっていたということになります。
境内の由緒によると、もとは東中富に鎮座していましたが、いつの頃か現在の地に移されたようです。近世になり、この地が藍生産で栄えるようになってから、この地の氏神として崇敬を受けるようになり、社殿などが改築されたそうです。
拝殿から東に向かって参道が延びており、その先に、その先には阿波の青石とよばれる緑泥片岩を用いた珍しい鳥居が立っています。
阿比良比売が、神武天皇の兄の五瀬命のように、東征に同行し、途中で命を落としたのなら、日向から大和の間のどこかで祀られていても不思議ではありません。しかし、阿比良比売が日向をでた形跡はありません。
つまり、阿比良比売が阿波で祀られる所以がないのです。
そこで、導き出された妄想が、阿比良比売は阿波にいたのではないかということです。
日向は、日向国を指すのではなく、「日向=ひむか」で日に向かうところ、つまり朝日の昇る方角のことだという説もあります。
かつての海岸線は、伊比良比咩神社のある藍住町近辺まできていたと考えられます。四国の東の端にあたります。日向ともいえないことはないところに位置しているのです。
まあ、しかし、とはいっても、阿波に祀られる所以のない阿比良比売が阿波で祀られているから阿波にいたというのは、さすがにどうかと思います。
しかし、兄の阿多小橋君も阿波にいたかも?
ということになると「ひょっとして?」という妄想がはたらいてしまいます。
阿比良比咩命の兄 阿多小橋君って?
藍住町から約25kmほど上流に吉野川市山川町があります。山川町には、村雲と流という地区に、延喜式内社の天村雲神社があります。
この天村雲命が、阿多小橋君ではないかという説があります。
豊受大神宮禰宜補任次第に、天牟羅雲命が瓊瓊杵尊の天孫降臨の時に、天から水を地上に持ってきた功績で、天二上命と後小橋命の2つの名を賜ったと、に書かれています。(※ちなみに、豊受大神宮禰宜補任次第は国立公文書館デジタルアーカイブで閲覧できます。)つまり、阿多小橋君=後小橋命だというのです。
天村雲命は、古事記や日本書紀には登場しません。
先代旧事本紀では、饒速日命の孫、海部氏系図では、天火明命の孫として、天村雲命が登場します。また、瓊瓊杵尊の天孫降臨にお供した32人の中に、天牟羅雲命がいます。この天村雲命と天牟羅雲命が同一人物なら「阿多小橋君=後小橋命」説もありかなと思います。
さらに、先代旧事本紀は、天村雲命の別名を天五多手命と記しています。天村雲神社のある辺りには、忌部郷(いんべごう)と射立郷(いたてごう)があったとされています。射立の郷名は、天五多手命に由来するのではないかという説もあります。
阿比良比咩命の夫 神倭伊波禧毘古命も・・・。
初代神武天皇は、奈良県橿原神宮で祀らていますが、神武天皇となる前の神倭伊波禧毘古命を祀る神社も阿波にあります。
あっちこっちから引っ張り出してくると、一つの妄想ができあがってしまいます。
神武東征の出発点は、阿波だったかも?