大川原高原は王ケ原高原だった!
吉野川下流の徳島平野から南の山を見ると、山頂の峰に風力発電の風車がずらっと並んでいるのが見えます。
徳島県佐那河内村にある大川原高原です。
大川原高原は、標高700mから1000mの高地にあり、最も高い旭ケ丸の標高は1019mとなっています。
大川原高原からの眺めは絶景で、吉野川下流域や鮎喰川の流れがはっきりと見て取れます。また、遠く淡路島まで見渡せます。

大川原高原は、かつて「王ケ原」と呼ばれていたのが変化して「大川原」になったという説があります。

何か王の痕跡があるのか?
1972年に刊行された「阿波のハイキング」には、「ゴルフ場やスキー場をつくり、”阿波の志賀高原”として売り出そうと村当局は力を入れている。」と書かれていますが、バブル期の夢物語となったようです。
現在、大川原高原では、放牧が行われており、牛たちがのんびりと過ごす光景が見られます。

のんびりした風景とは対照的にすぐそばには、巨大な風力発電の風車がずらっと並んでいます。

謎の「王ケ原神宮」
「四国は死国にされていた:大和朝廷の大秘密政策」の著者である大杉博氏は、「ここは、かつて『王ケ原』と呼ばれ、また『高天原』とも呼ばれていた。」と、述べています。

考えてみると、1000m超えの高地にありながら「大川原」というのは不自然ではある。
放牧された牛たちを見ながら、旭ケ丸の頂上へと向かう登山道へと入り、しばらく歩くと、展望台があり、そこに謎の遺物が残されています。

展望台の傍らに、石積みがあり、「オカマゴ」に石仏が納められています。

そこに、謎の石碑があります。

よーくみると、「倭総鎮守 王ケ原神宮」と刻まれています。
阿波には、倭の国の神様である倭大國魂と倭大國敷神社命を祀る神社が、全国唯一、延喜式内社として存在しています。

このことを根拠に、阿波が本当の倭であるという説もあります。

王ケ原に倭の国を守る神様が祀られていた?
しかしながら、石に刻まれた文字もそんなに古くはなさそうですし、王ケ原神宮があったという痕跡がありません。何より、「佐那河内村史」を調べてみても、そんな記述はどこにも見当たりません。
展望台の上から見てみました。


これって積石塚?
赤っぽい石は、コンクリート製の展望台の礎石にも使われているようですし、何よりも積石塚古墳なら展望台建設の際に調査が行われているはずです。

怪しいけどなあ。
「倭総鎮守王ケ原神宮」を掘り下げたいのですが、これ以上の情報がどこにもありません。
しかし、展望台の近くで、気になる石柱を見つけました。
天岩戸別神社の痕跡

「天岩戸別神社」と書かれています。しかし、辺りには、社殿も祠も何もありません。

どこかに遷されたということか?
大川原高原から2,3㎞降った府能というところに、知る人ぞ知る天手力男神を祀る「天岩戸別神社」があます。
なんとも雰囲気のある神社で、天照皇太神と豊受皇大神も一緒に祀られており「三社様」とも呼ばれているようです。

「古事記」には、「手力雄命は佐那那縣に坐す」と記されており、その佐那那縣が佐那河内村だという説があります。
「天岩戸別神社」の近くには、「奥の院」と称する古墳のような塚や「手力男命の塚」と伝わる場所もあります。



私なら大川高原のてっぺんに古墳を造るけどね。眺めいいし。
江戸時代に徳島藩が編纂した「阿波志」に、「天石門別祠 中邊村天嶺にあり鎮守と称す」と記されています。中邊村とは、天慶年間(938年~947年)に、狭長村から改称した今の佐那河内村の旧称です。

もともとは、大川原高原の山頂にあったのか?
現在の天岩戸別神社が遷されたかどうかは不明ですが、同じ佐那河内村にある天照大神を祀る嵯峨天一神社は、弘仁3年(812年)に恵穂嶽の山頂にあった社を現在の地に遷したということが社伝に記されていますから、天岩戸別神社もその可能性がないとはいえません。
王ケ原の王は天手力男神?
仮に、天岩戸別神社がもともと大河原高原の山頂にあったとすると、王ケ原の王は天手力男命ではないのかという妄想ができます。
天手力男命は、天照大神が隠れた天岩戸を開けた神様として有名ですが、伊勢神宮内宮に天照大神と同殿に祀られていることはあまり知られていません。
延暦23年(804年)の「皇太神宮儀式帳」には、同殿坐神として、左に天手力男神、右に万幡豊秋津姫命が祀られていると記されています。
伊勢神宮内宮に同殿坐神の二柱については、諸説あり、さらに、なぜ天手力男命が含まれているのかもはっきりしません。
天岩戸での天照大神とのかかわりや瓊瓊杵尊とともに天降ったということが理由とされていますが、それらの事柄にかかわった神様は他にもいます。天手力男命だけが天照大神と一緒に祀られているというのはおかしなことです。

ともかく重要な神様であることは間違いない。
実は、江戸時代の国学者である平田篤胤は、天手力男命と天石戸別命と天背男命が同一であるとして、その子が阿波忌部の祖神である天日鷲命であるとしています。

阿波古代史を探っていると、結局、忌部につながる
さらに、「斎部宿祢本系帳」には、天背男命は天石門別命とも云うとしてその后神が八倉比売命であると記されています。

八倉比売命といえば天石門別八倉比売神社!

徳島市国府町にある天石門別八倉比売神社ですが、ここも知る人ぞ知る有名な神社です。

天手力男命と八倉比売命が夫婦なら、両社に「あまのいわとわけ」がついているのも納得
天石門別八倉比売命の祭り神は、大日霊命で、すなわち天照大神です。伊勢神宮内宮の儀式帳である「皇太神宮儀式帳」にも「天照意保比流売命」と別称が記されています。
なぜ、天照大神を祀る天石門別八倉比売神社に、八倉比売の名がついているのか不明ですが、八倉比売命も天手力男命と同じように天照大神とかかわりがあるのです。

天照大神と関係が深くて、阿波忌部の祖神の天日鷲命の父神となると天手力男命が佐那河内の王と呼ばれても不思議ではない。
まとめ
大川原高原が「王ケ原」と呼ばれていたという伝説からいろいろ妄想してみました。
あくまで「天手力男命=天石門別命」という前提での妄想で、古事記を読むと、天孫降臨の段では、「また思兼神、手力男神、天石門別神を副え賜ひて・・・」と書かれているので、別神の可能性もあります。
大河原高原にある「倭総鎮守王ケ原神宮」の石碑を誰がいつ建てたのかはわかりませんが、「火のないところに煙はたたず」で何らかのいわれがあると思われます。
しかし、一見、トンデモ説に思えるような説も何となく妄想で成り立ってしまうのが阿波古代史の魅力でもあります。
