鳴門から県道12号線を西に向かって進むと、大麻中学校を過ぎた辺りにトンネルが見えてきます。トンネル入り口の右側に、「天河別神社古墳群」の立て看板があります。古墳群は、天河別神社の社殿の裏にあります。
このトンネル通るたびに、なんでこんな短いトンネルを作ったんだと思っていたんだよね。古墳を守るためにトンネルにしたのか!これは、捜査せねばなりませぬ。
天河別神社とは?
天河別神社
天河別神社の祭神は天石戸別命(あめのいわとのかみ)です。古事記において、邇邇芸命(にぎのみこと)が天降るときに、天児屋命(あめのこやねのみこと)、布刀玉命(ふとだまのみこと)、天宇受売命(あめのうずめのみこと)、伊斯許理度売命(いしこりどめのみこと)、玉祖命(たまのおやのみこと)に加えて、常世の思金神(おもいかねのかみ)、天手力男神(たぢからおのかみ)、天石門別神(あめのいわとのかみ)が加えられました。別名を豊石窓神(とよいわまどのかみ)、櫛石窓神(くしいわどのかみ)といい、御門の神とされています。
豊石窓神と櫛石窓神は、宮中に侵入する邪神を阻止する神で、その祭祀は忌部氏が取り仕切っていた。古語拾遺では、この2神を太玉命の子であるとしている。天河別神社から西へ約2kmほどいくと、阿波国一宮の大麻比古神社がある。大麻比古神社の由緒には、阿波を開拓した忌部氏がその祖の太玉命をこの地に斎き祀ったとある。天河別神社は、忌部氏と関係があるのか?
天河別神社古墳を行く!
神社境内に古墳群の地図がありました。トンネルの上に4号墳があるようです。
天河別神社1号墳
社殿裏にある1号墳は直径25m高さ2.7mの2段築成の円墳です。2段ともに直径約30cmの砂岩礫を基底石とし葺石が施され、東阿波型土器が供献土器として墳丘に配置されていました。埋葬施設は、「墓壙+外周帯+竪穴式石室+木棺」という構造で、畿内の竪穴式石室よりも古く、その起源という説もあります。長さ約8mの墓壙を掘り、コウヤマキ製の木棺を納め、その側壁に沿って、吉野川南岸産の結晶片岩を長手積みして約5mの竪穴式石室を形成し、木で蓋をしたと考えられています。鉄剣2、鉄斧1、鉄製柄1、鏡1、朱を施した土器片が副葬品として出土しました。鏡は、直径約7cmの仿製珠文鏡の破片ですが、完鏡として副葬されたと考えられています。朱は中国産辰砂と推定されています。3世紀後半~4世紀前半の築造と考えられています。
天河別神社2号墳
1号墳の奥に「剣神社」と書かれた祠がたっている小山が2号墳です。形状は、直径26m高さ4.4mの2段築成の円墳で、1号墳と同じように葺石が施されていたと考えられています。墳丘に朱塗りの土器が配置されていたと思われます。朱は中国産辰砂と推定されています。埋葬施設は、南北主軸の竪穴式石室で吉野川南岸産の結晶片岩を下方から上方へ持ち送りながら積み上げて天井部で合掌状に閉塞させて石室を築いています。1号墳のすぐ後に築造されたと考えられています。
天河別神社4号墳
1号墳を回り込むように山の中に道を進んでいくと小さな小山があり、「4号墳」という札が見えます。4号墳は見える範囲では円墳に見えます。北側に前方部がある前方後円墳ではないかという見方もあります。先ほどの案内板では、前方後円墳となっていました。前方後円墳だとすれば、全長は35m~45mと推定されます。埋葬施設は大型の粘土槨又は竪穴式石室の可能性があるとされ、副葬品として、鉄鏃、鉄剣又は鉄槍、漢鏡7期の斜縁二神二獣鏡が出土しました。天河別神社古墳群の中では最も先に築造されたのではないと考えられています。
天河別神社3号墳
4号墳を右手に見ながら山道を20mほど南側の尾根の先端方向に進むと3号墳があります。3号墳は、後円部24m前方部17m全長41mの前方後円墳です。確かに、後円部と思われる部分に立ち、南側を見ると前方部が広がっているように見えます。2段築成で葺石を施されていたと考えられ、4世紀前半~5世紀前半の築造と推定されています。
案内板には、5号墳と6号墳が4号墳の奥にあると書かれていた。ちょうど、トンネルの真上になるが・・・。茂みの奥にあり、道らしき道も見当たらず、さすがに入っていく勇気がなかった。やはり古墳探索は冬がいい。
まとめ
今回の調査をもとに推理してみると・・・。
天河別古墳群では、築造された時期が古い順に、4・5号墳→1・2号→3号墳と考えられている。天河別神社古墳群で確認されている10基の古墳のうち5期が前期古墳だ。丘陵地から見下ろす平野には、池谷丸池遺跡などがあり、弥生集落の存在も確認されいる。天河別神社古墳群のすぐ西側の尾根には、先行する弥生時代終末期の萩原墳墓群が存在している。
天河別神社古墳群4号墳を築造するときには、すぐ西側に、積石塚の萩原1号墳や2号墳は築造されていたことになる。天河別神社古墳を造った人々は、直径20mを超える積石塚をどう見ていたのか。萩原1号墳、2号墳は円形の積石塚に約5mないし約8mの突出部をもっている。それを引き継がなかったのにはどんな理由があるのか。埋葬施設の向きも、萩原墳墓群は東西軸なのに対して、天河別神社古墳群4号墳は北東南西方向にふっている。さらに、後続の1・2号墳は南北軸となる。萩原1・2号墳も天河別神社古墳群4・5号墳も副葬品からして、おそらく首長墓であろう。墓制の違いは首長の交代を意味するのか??それとも外的な影響によるものか?
天河別神社の創建年代は不詳ですが、天石戸別命を祀っている場所に古墳を作るとは考えられない。古墳があったからその霊代を祀ることにしたのだろう。そうすると祭神である天石戸別命は天河別神社古墳群を築いた人々に関係する神ということになる。やはり、忌部氏か?
そう簡単には、古代史の謎は解けないものだ。