【阿波の神社を行く!】京都上賀茂神社の元宮? 延喜式内社「鴨神社」(東みよし町三加茂)

阿波の神社を行く!

阿波には 〇〇神社の元宮 といわれている神社がいくつかあります。

徳島県三好郡東みよし町にある延喜式内社の鴨神社(かもじんじゃ)は、
なんと京都にある上賀茂神社の元宮だという説があります。
ちゃぼたつ
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京都の上賀茂神社といえば、京都三大祭りのひとつである葵祭が有名な京都でも最古級の神社だといわれています。その元宮とは・・・。妄想の阿波古代史を探ってみましょう。あくまで妄想ですので、あしからず・・・。

京都上賀茂神社について

 上賀茂神社というのは通称で、正式には賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)といいます。祭神は賀茂別雷大神で、神武天皇の御代に、本殿背後の神山に降臨・鎮座したと伝えられています。その後、白鳳6年(677年)に山背国が賀茂神宮を造営し、現在の社殿の基が築かれました。
 上賀茂神社で有名なのは葵祭です。祭の起源は、第29代欽明天皇の御代(6世紀中頃)だといわれています。葵は上賀茂神社の神紋で、祭で葵を身に付けることから葵祭と呼ばれるようになったそうです。
山城国風土記                                       別雷神は、健角身命の娘の玉依姫命が、川から流れてきた丹塗矢を持ち帰ったところ懐妊した子で、祝宴の最中に「我が父は天津神なり」と言って、雷鳴と共に天に昇り、その後、上賀茂神社の背後の神山に降臨した。
ちゃぼたつ
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上賀茂神社には、古くから伝えられる由緒があります。山城国風土記にも由緒に関する記載があります。阿波とは関係ないような気がしますが・・・。

鴨神社の周辺の神社は、京都上賀茂神社の周辺とそっくり!

京都上賀茂神社と阿波鴨神社の周辺の神社は多くの共通点があります。

京都上賀茂神社は、賀茂川流域にあり、上流には貴船神社、下流には下鴨神社があります。鴨神社も加茂川流域にあります。そして、その上流には貴布禰神社、加茂川が吉野川に合流して少し下ったところに下加茂神社があります。

京都の下鴨神社の正式名称は、賀茂御祖神神社(かもみおやじんじゃ)といい、賀茂別雷大神の母の玉依媛命とその父の賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)を祀っています。そして、阿波の下加茂神社も同じように玉依姫命を祀っています。

さらに、京都上賀茂神社の周辺には、片岡神社、沢田神社、大田神社などがあります。鴨神社のある旧三加茂町内には、奈良神社、沢田神社、大田神社、片岡神社が存在していたと三加茂町史に書かれています。

ちゃぼたつ
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これは、偶然の一致ではないですよね。何らかの意図があってつくられているのは間違いありません。

鴨神社の神社由緒には、こう書かれています。

当社は、延喜式内社にて鎮座の年代は不詳なれど貞観庚申2年以前の創建にして京都上賀茂神社の勧請所である。
鴨神社周辺の福田庄は、寛治4年(1090年)に、京都上賀茂神社の社領となっていたという記録があります。
ちゃぼたつ
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なるほど、それで、京都に模して周辺の神社を配したのですね。どうやら、元宮ではないようです。しかし、元宮説が存在するからには、何か謎がありそうです。

鴨神社神官:白川氏について

鴨神社の神官について、阿府志に次のような記録が残っています。

白川氏 賀茂村住 元は洛外鴨ノ神社の神職也 旧記曰、欽明天皇朝六拾余州賀茂神田一ヲ置 則其時神主、社侍等来、神務此所ニ於テ務メナルベシ

第29代欽明天皇の即位は539年とされています。白川氏は、6世紀前期に、社侍の河原氏、宮氏の2氏とともに、この地にやってきたのです。

白川氏らは、元々、大和国葛城の山麓に住んでいた鴨一族でした。鴨一族は、5世紀末に第21代雄略天皇により、葛城氏が滅ぼされたために、鴨の神を捧持して諸国に散ったと言われています。

阿府志を読む限り、白川氏は、京都の賀茂神社の神職で、諸国に賀茂神田を置くことになったので、その一つである鴨神社周辺にやってきたと読み取れます。つまり、白川氏は、逃れてきたのではなく、派遣されて来たということになります。

ちゃぼたつ
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鴨神社周辺には、白川氏がやってくる前に、大和国葛城から逃れてきた鴨族が住んでいて、鴨の神を祀っていた可能性があります。

鴨神社の元の祭神は別雷神ではない!~その1~

賀茂別雷大神は、山城国風土記のみに記された神で、日本書紀や古事記には登場しません。鴨神社の祭神である別雷神について、阿波の歴史書である阿波志には、こんなことが書かれています。

鴨祠延喜式小祠と為す。加茂村に在り、旧事記にいわゆる 事代主の神孫鴨王 是也。
 阿波志は、鴨神社に鎮座しているのは、事代主神の孫の鴨王(かものきみ)だと言っています。

 鴨王は、日本書紀に「曰渟名底仲媛命事代主神孫鴨王女也」と記されているのみで、どのような人物なのか詳しいことはわかりません。しかし、日本書紀から、事代主神の孫で渟名底仲媛命の父であることはわかります。渟名底仲媛命(ぬなそこなかつひめ)は、第3代安寧天皇の皇后です。

事代主神→〇〇→鴨王→渟名底仲媛命
 先代旧事本紀は、渟名底仲媛命の父は、天日方奇日方命(あまのひがたくしひがたのみこと)で都味歯八重事代主神の子であるとしています。さらに、天日方奇日方命の妹は、神武皇后の比売蹈鞴五十鈴姫命と記しています。
事代主神→天日方奇日方命→渟名底仲媛命
 つまり、鴨王=天日方奇日方命 という説が成り立ちます。
ちゃぼたつ
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妹が初代天皇の皇后、娘が第3代安寧天皇皇后、そして第4代懿徳天皇の祖父となれば、天日方奇日方命が大王に匹敵する力をもつ鴨一族の首長「鴨王」と呼ばれても不思議はないと思われます。もし、阿波志のいうよに「別雷神=鴨王」なら、山城国風土記や賀茂県主家の系図にそのことが記されていてもいいような気がしますが・・・。どうも、別雷神と鴨王は別の人物のようです。

鴨神社の本当の祭神は・・・鴨王=天日方奇日方命 ???

鴨神社の元の祭神は別雷神ではない!~その2~

古事記に「迦毛大御神(かものおおみかみ)」と記された神がいます。大国主命と多紀理毘売命との子の阿遅鉏高日子根神(あじすきたかひこねのかみ)です。

「道は阿波より始まる」の著者である岩利大閑氏は、鴨神社の背後位ある加茂山の中腹にある積石塚前方後円墳(前方後方墳とも)の丹田古墳が阿遅鉏高日子根神の御陵であり、鴨神社はその拝所であるとしています。

 丹田古墳 全長35mの積石塚前方後方墳 4世頃の築造

つまり、鴨神社の祭神は、迦毛大御神で、阿遅鉏高日子根神だというのです。

阿遅鉏高日子根神は、大和葛城郷(奈良県御所市)の高鴨神社に祀られており、鴨一族の氏神です。阿遅鉏高日子根神は、天若彦命の葬儀で、美濃に作られた喪屋を大量(おおはかり)という太刀で切り倒したと古事記に記されています。吉野川をはさんで鴨神社のある加茂山の対岸が三野町太刀野山という山があります。

ちゃぼたつ
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地名の由来はわかりませんが、偶然にしては、なかなか面白いと思いませんか?

鴨神社の本当の祭神は・・・迦毛大御神=阿遅鉏高日子根神 ???

鴨神社の元の祭神は鴨一族の守護神

阿遅鉏高日子根神は、大国主命と多紀理毘売命の子で、事代主神は、大国主命と多岐都比売命の子です。ちなみに、多紀理毘売命と多岐都比売命は姉妹で市杵島姫命とともに宗像三女神として有名です。

葛城氏の本拠地であった大和国葛城には、阿遅鉏高日子根神を主祭神として祀る高鴨神社があます。阿遅鉏高日子根神は、鴨一族の守護神とされています。迦毛大御神と呼ばれる所以です。また、事代主神を主祭神として祀る鴨都波神社も近くにあり、高鴨神社を上鴨社、鴨都波神社を下鴨社と呼んでいます。どちらも鴨一族が奉斎した神です。

 奈良県 高鴨神社

5世紀末に雄略天皇に大和国葛城から逃れてきた鴨一族が阿波で奉斎したのは、鴨一族の守護神である阿遅鉏高日子根神であると考えます。

一方で、京都上賀茂神社の祭神である賀茂別雷大神の父の賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)は、山城国風土記によれば、大和葛木山から山城に至り、下賀茂神社の辺りに鎮座したとあります。賀茂氏系図では、賀茂建角身命を神武東征の際に功績のあった八咫烏の名を冠し、八咫烏鴨武角身命としています。

大和国葛城から山城国に逃れた鴨一族は、神武天皇ともにヤマト建国を成し遂げた賀茂建角身命を奉斎し、その子を神とし降臨伝説を作り上げることで、ヤマト王権に対して一族の誇りを主張したのかもしれません。

ちゃぼたつ
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時代は下って、阿波鴨神社周辺が、山城上賀茂神社の神田となったときに、京都から神官が来て、祭神が、阿遅鉏高日子根神から賀茂別雷神になった可能性もあります。

阿波での鴨一族は金属製錬で大きな経済力を手に入れていた

鴨神社付近には、鴨神社古墳群として5基の横穴式石室を持つ円墳の存在が確認されています。古墳の築造年代は不明ですが、おそらく、6世紀後半から7世紀にかけて造られたものだと考えられます。

鴨神社古墳群 塚穴古墳・姫塚古墳・ショー人塚古墳・熊丸古墳・すずだけ塚古墳

古墳を築造するには、大きな経済力と支配下にある多数の住民の存在がかかせません。6世紀に、この地が、上賀茂神社の神田となり得たのも、それなりの収穫量があってのことだと考えられます。5世紀末に大和国葛城から逃れてきた鴨一族が短期間にそれほどの経済力を持ったとは考えにくいことです。

鴨神社の元の祭神の候補に挙げた事代主神の孫の鴨王=天日方奇日方命の妹は、神武天皇皇后となった比売蹈鞴五十鈴姫命です。比売蹈鞴五十鈴姫命には「たたら」という金属製錬を連想させる名がついています。母の勢夜陀多良比売にも「たたら」の名がついています。このことから、鴨一族が大きな力を持った背景として金属製錬が関わっているのではないかと考えられるのです。

鴨神社のある加茂山横を流れる加茂川は、標高1401mの風呂塔(ふろんとう)を源流としています。風呂塔かじやの久保には、奈良以前の銅の採掘跡が確認されています。鴨神社の近くには、「カジヤシキ」の地名も残っています。

5世紀末に大和国葛城から阿波へ逃れてきた鴨一族は、銅の製錬によって多大な利益と権力を得ていた同族を頼ってやってきたとの推察もできます。

阿波での鴨一族が、大きな経済力と多数の住民を支配下に置いていたことは、4世紀に築造されたとされる丹田古墳が語っています。丹田古墳は、標高731mの加茂山の中腹、海抜330mのところに、人頭大の石を積み上げて、全長37mの前方後方墳を築造しています。

鴨・加茂・賀茂の地名に隠されたもの

加茂という地名は、全国に数多く存在します。阿波にもあちこちにあります。

阿南市加茂町には、弥生時代の辰砂採掘坑道跡のある若杉山遺跡や鉄器生産の炉跡が発見された加茂宮前遺跡があります。すぐ西の和食には延喜式内社蛭子神社があり、事代主命の生誕の地とされています。

阿波国名東郡には、加茂郷が存在し、現在でも徳島市には、加茂・加茂名という地名が残っています。近くの名東遺跡からは、弥生時代中期末の土器が出土した竪穴式住居跡から鉄の鍛造剥片が、庄・蔵本遺跡からは、弥生時代終末期後半(3世紀前半)のふいごの羽口が見つかっています。

全国に目を向けると、日本最多の銅鐸・銅矛を出土した出雲国の加茂岩倉遺跡は、島根県雲南市加茂町にあります。

ちゃぼたつ
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全国の加茂の地名について調べてみないことには、何ともいえませんが、少なくとも阿波では、加茂という地名と金属製錬に関係があるように思えます。

まとめ

鴨神社について、妄想をまとめてみました。状況証拠と推察だけで根拠は全くありません。

鴨神社創建以前に、金属製錬を得意とする鴨一族によってこの地は開拓されており、鴨一族は、丹田古墳を築造するなど、大きな経済力と支配力をもっていたと考えられます。
鴨一族は、守護神である阿遅鉏高日子根神を祀っていましたが、6世紀に京都の賀茂神社の神田となり、神職を迎え、鴨神社を創建するにあたり、賀茂神社の祭神である賀茂別雷神を祭神として鴨神社が創建されたと考えられます。
11世紀に京都上賀茂神社の社領となり、京都を模して周辺の神社が作られました。
鴨神社が、京都上賀茂神社の元宮というのは、鴨一族つながりで全くのトンデモ説ではありませんが、誤った説です。それは、鴨神社が阿波から京都へ勧請されたわけではないからです。京都上賀茂神社の元宮は、やはり、鴨一族の守護神である阿遅鉏高日子根神を祀る奈良高鴨神社だと言えます。
参考文献:三加茂町史
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