拝中古墳を中心に、北西約500mに北原古墳、南東約500mに拝東古墳があります。どれも小さな円墳ですが比較的よく残っていて、散歩がてらに見学するにはちょうどよい古墳です。簡単に見つけられると思ったのですが、思わぬ苦戦を強いられることに・・・。
ちゃぼたつ
徳島自動車道脇町IC近くに、阿讃山脈から吉野川に流れ込む曽江谷川が流れています。この曽江谷川がつくりだす扇状地には、多くの弥生遺跡や古墳が確認されています。
拝中古墳(はいなかこふん)
拝中古墳は、国道193号線のすぐ横にあります。真夏に訪れたので、墳丘は草で覆われていました。標柱が立っていなければ、草が生い茂っている小山にしか見えず、通り過ぎていたかもしれません。しかし、よく見ると、墓石のような石碑のようなものが墳丘上にぽつぽつと立っています。直径約15mくらいの円墳に見えます。
南側に向いて横穴式石室が開口しています。開口部周辺の石はきれいに積み直されて石垣のようになっていました。開口部から中をのぞけるのではないかと思いましたが、すぐ南が民家の敷地になっていたのであきらめることにしました。
全長7.1m、玄室長3.6m、羨道部長3m、最大幅2.4m、高さ3mの両袖式横穴式石室である。奥壁と側壁を持ち送る段の塚穴型石室で、天井部は7枚の結晶片岩が使われている。6世紀後半から6世紀末の築造と考えられる。~美馬市HP観光情報より引用~
北原古墳(きたはらこふん)
拝中古墳から北西へ約500mくらいの所にあります。田んぼの真ん中がお椀を伏せたようにこんもりと盛り上がってみます。訪れたときは、田んぼの稲の緑と墳丘の雑草の緑が一体化して、とても鮮やかに見えました。
近寄ってみると、南側に横穴式石室らしきものの開口部が見えます。推定、直径約15m、高さ約5mの円墳で、6世紀後半の築造と考えられています。
拝東古墳(はいひがしこふん)
拝中古墳から南東約500mのところに拝東古墳があります。この拝東古墳を見つけるのに相当苦戦しました。持参した地図を見ると、県道12号線のすぐ南にあるようになっています。しかし、県道12号線と吉野川堤防の間の細い道を何度も行ったり来たりしましたが見つかりません。そういえば、この辺り、以前に、倭大國敷神社を探したときに、さんざん歩き回った記憶があります。古墳らしきものは、見当たらなかったなあと思いつつ歩いていると倭大国敷神社に着きました。
【阿波の神社を行く!】全国唯一!倭大國魂神を冠する神社!延喜式内社「倭大國玉倭大國敷神社」
倭大国魂神は、その名の通り、倭の国そのものを表す神様です。倭大国魂神を冠する神社は、延喜式神名帳では、阿波国の倭大國玉神倭大國敷神社しかありません。
その後、再び県道12号線方面へ住宅街の路地をもう一度歩いてみました。すると、田んぼの向こう側の民家の敷地に古墳らしき盛土があります。民家の敷地なので入ってたしかめるわけにはいきませんでしたが、標柱を見てみると、「美馬市指定史跡 拝東古墳」と書いてあります。ようやくたどり着きました。
現状では直径15メートル、高さ5メートル(推定)の円墳。墳丘の北側は民家・西側は果樹園・東側は水路・南側は畑でもって削り取られており本来の姿は殆ど見られない。現全長5.5メートル、玄室長4.5メートル、羨道部現長1メートルで南に開口している。 石室は最大幅2.5メートル、最大高2.7メートルの両袖式横穴式石室である。奥壁と側壁の玄門石の高さまでは砂岩を使っており側壁の持ち送る部分は結晶片岩の割り石を使っている。奥壁と側壁から持ち送る段の塚穴型石室であり、天井部は7枚の結晶片岩が使われている。時期は6世紀後半から6世紀末。~美馬市HP観光情報より引用~
古墳の被葬者を探る
扇状地に現存する古墳は、いずれも古墳時代後期(6世紀後半)に築造された円墳で、その規模は直径約15m、高さ5mほどです。側壁と天井石を持ち送り、玄室天井部をドーム状に構成する段の塚穴型の横穴式石室を有しています。
3つの古墳は、北西から南東へと曽江谷川の流れに沿って築かれてます。また、近くの拝原遺跡からは、6世紀頃の方形の穴を掘って造られた竪穴式住居と堀立柱建物が発見されています。おそらく古墳を構築した人々の集落ではないかと推察されます。
さらに、倭大國敷神社の南の拝東遺跡からは、弥生時代後期から古墳時代初期の竪穴式住居7棟と鉄器制作に使用した鍛冶炉跡が見つかっています。拝東遺跡で発掘されたのは集落の一部で、発掘場所の東側には大集落が広がっていたのではないかと考えられています。
拝東遺跡の奥に見える山は、伊邪那美命の神陵があるともいわれている高越山です。拝中、拝東の古墳の名称は拝原という地名から付けられています。拝原の地名は、高越山を拝礼する場所であるからその名がついたとの説があります。拝中、北原、拝東の3つの古墳や倭大國敷神社が位置する曽江谷川扇状地は、古くから人々が集落を形成し居住してきた地域なのです。倭大國敷神社にある史跡説明板では、忌部氏との関連も述べられています。
ちゃぼたつ
拝中、北原、拝東古墳の石室構造は、段の塚穴型です。忌部氏特有の忌部山型ではありません。古墳を築いた一族も忌部氏と関係があるのでしょうか。
さらに、曽江谷川の東岸の河岸段丘上には、北岡西古墳や北岡東古墳、長峰古墳があります。いずれも、6世紀後半の築造で、段の塚穴型の横穴式石室をもつ円墳です。拝中、拝東、北岡の3つの古墳と古墳規模もよく似ており、曽江谷川扇状地周辺地域を支配した一族の墓だと考えられます。
まとめ
拝中古墳、拝東古墳、北原古墳の3つの古墳は、墳丘規模や石室構造、築造時期が同じで、近くに同時期の集落遺跡も見つかっていることから、古墳を築造した人々やその一族を妄想してみるのも面白いと思います。さらに、倭大國敷神社という妄想を盛り上げてくれる神社も近くにあります。阿波古代史を妄想しながら、古墳散策をしてみるのもいいですね。
参考文献:「日本の古代遺跡37徳島」