徳島県のシンボルとなっている眉山。その眉山の中腹に、神武天皇像があります。
ん? 日向と阿波にしかないですと、これは捜査せねばなりませぬ。
神武天皇像について
丸亀歩兵第12連隊は、西南戦争、日清戦争、日露戦争と数々の戦歴を刻んだ大日本帝国の連隊です。神武天皇像は、日清戦争の戦勝記念としてつくられたと思われます。
初めは、八坂神社の山手側にあったそうですが、明治39年に忠魂碑が城山の山頂に移転したので、そのあと眉山に移転されたようです。
神武天皇の銅像は、全国に2体しかないと書かれているますが、調べてみると、愛知県豊橋市の豊橋公園にも、明治32年(1899年)に鋳造された神武天皇の銅像があります。豊橋公園は、かつて歩兵第18連隊の駐屯地だったそうです。
阿波と日向の2体しかないとすれば意味深な感じがするけど、愛知県にもあるじゃない。神武天皇と阿波には深いつながりなどないのでは・・・。
橿原神宮と神武天皇陵
日本書紀や古事記によると、神武天皇は、畝傍山の東南の橿原(かしはら)の地に都を定めたとあります。現在、奈良県の畝傍山の東南には、橿原神宮があります。橿原神宮の創建は明治23年(1890年)です。
畝傍山の北麓には、神武天皇陵があります。日本書紀や古事記の記述から、文久2年(1862年)に神武天皇陵と定められたそうです。
もとは「ミサンザイ」と呼ばれていた田んぼの中にある小塚だったそうですが、神武天皇陵と定められてからは、大改修がされて塚を囲む森や濠が造営されたそうです。
神武天皇陵も橿原神宮もそれほど古いものではありません。むしろ、天皇の権威を高めるために、後世になってつくられたという感じがします。橿原市という地名は、昭和になっての町村合併で生まれた地名です。実際は、橿原という地名もどこかわからなくなっていたといわれています。
日本書紀や古事記に書かれた橿原宮は、どこかわからないんだ。いかにもっていう感じの荘厳さは、明治になってつくられたということか。
神日本磐礼毘古之命を祭神とする樫原神社
神武天皇の諱は、神日本磐礼毘古之命(かむやまといわれひこのみこと)といいます。この、神日本磐礼毘古之命を祭神とする神社が、阿波国の樫原という地にあります。徳島県阿波市土成町樫原にある樫原神社です。
奈良の橿原神宮とはずいぶん趣が違うなあ。
おっ!社殿には、菊紋が飾られているぞ。皇室の16菊紋ではなく15菊紋だ。
天保12年の棟札が残っているということは、奈良の橿原神宮よりも古いな。
樫原神社には、2つの鳥居があって、その一つには、「鈴川神社」と書かれています。
樫原神社のある樫原地区の東側に鈴川という地名があります。おそらく、鈴川地区にあった鈴川神社の鳥居が何らかの理由で、樫原神社に移されたと思われます。
まとめ
今回の捜査から推理してみると・・・。
眉山にある神武天皇の銅像は、国威高揚のために造られたもので、愛知県豊橋市にも同時期に造られた銅像がある。阿波と日向の2体しかないという意味深な説明から、神武東征と阿波に何か関係があると妄想をかきたてられたが、説明は、事実と異なることが判明した。
しかし、奈良県橿原市の橿原神宮が創建される以前から、阿波国に樫原神社が存在し、樫原の地名があったことは確かな事実である。樫原神社のある地は、いつごろから樫原と呼ばれていたのか?そもそも、なぜここに神日本磐礼毘古之命を祀ることになったのか?もしかしてここが本当の橿原宮・・・。なんてことはないだろう。たぶん・・・。そう簡単には、古代の謎は解けないものだ・・・。
「神武東征が阿波から始まったとすれば・・・」などどいう妄想をかきたてられます。