徳島県阿波市阿波町字勝命に、勝命(かつみょう)神社という神社があります。
「徳島県神社誌」によると、主祭神は、菊理媛命、伊弉諾命、伊弉冉命、大己貴命、仁徳天皇、川人備前守ほか・・・となっています。
どうやら合祀したようだ・・・。
勝命神社を行く!
鳥居をくぐって参道を進むと社殿があります。鳥居は東を向いていますが、社殿は南に向いて建てられています。
社殿の中に菊紋の入った幕がありました。おそらく神紋は菊紋だと思われます。
鳥居の横に「九栗若宮金刀比羅川人四社合祀奉稱勝命神社・・・」と彫られた石碑が立っていました。
「徳島県神社誌」によると、「明治43年に若宮神社、金刀比羅神社、川人神社の三社を合併し、大正6年に社号を勝命神社と改称した」とあります。
若宮神社は仁徳天皇、金刀比羅神社は大己貴命、川人神社は川人備前守を祀っていたと考えられるので、勝命神社は、もともとは、九栗と書いて「くくり」と読み、菊理媛命、伊弉諾命、伊弉冉命を祀っていたことになります。
菊理媛命(くくりひめ)とは?
菊理媛命は、古事記には登場しません。日本書紀の本文にも登場せず、一書に一度だけ登場する神様です。
登場場面を「日本書紀(上)全現代語訳 宇治谷孟(講談社学術文庫)」から引用します。
その妻と泉平坂(よもつひらさか)で相争うとき、伊弉諾尊がいわれるのに、「はじめあなたを悲しみ慕ったのは、私が弱虫だった」と。このとき泉守道者が申し上げていうのに、「伊弉冉尊のお言葉がありまして『私はあなたともう国を生みました。どうして更にこの上生むことを求めましょうか。私はこの国にとどまって、ご一緒には参りません。』と」。このとき菊理媛神がもうしあげられることがあった。伊弉諾尊はこれをお聞きになり、ほめられた。ただし自ら黄泉の国を見られた。これが不詳であった。それでそのけがらわしいものをすすぎ洗おうと思って出かけて阿波の水門と速吸名門をごらんになった。ところがこの二つの海峡は、潮流がはなはだ速かった。それで、橘の小門に帰られて、払いすすぎをなさった。
ん?これはもう舞台が阿波だ!
原文では、「粟門及速吸名門」となっています。伊弉諾命が禊祓いをしたとして「古事記」に記されている「竺紫日向之橘小門之阿波岐原」は阿波だという説もあります。
菊理媛命は、加賀国一宮の延喜式内社白山比咩神社の主祭神である白山比咩神と同一視されています。白山比咩神社は石川県の霊峰白山の麓に鎮座しており、白山を御神体としています。全国にある白山比咩神社や白山神社で祀られています。
しかし、菊理媛命と白山比咩神がなぜ同一視されるようになったのかについては諸説あるようではっきりしたことはわかっていません。
勝命神社に祀られている菊理媛命は、もとは九栗神社に祀られていたのですから、白山信仰とは関係がないと考えられます。
菊理媛命は何と言ったのか?
伊弉諾尊は、菊理媛命が言ったことに納得して黄泉の国を去っています。菊理媛命が何と言ったのかは書かれていませんから、妄想するしかありません。
ある説では、伊弉諾尊に禊祓いの方法を教えたのではないかという説があります。これは、菊理媛命の「くくり」というのが「くぐる」という意味だとして、「水をくぐる」すなわち、水に潜って穢れをはらうとよいと教えてもらったという理由によるものです。
しかし、菊理媛命は、泉守道者が伝えた「私はあなたともう国を生みました。どうして更にこの上生むことを求めましょうか。私はこの国にとどまって、ご一緒には参りません。」という伊弉冉尊の言葉に付け加えて何か言っているので、穢れをはらう方法というのは文脈が合わない気がします。
日本書紀の本文には、泉津平坂で伊弉諾尊と伊弉冉尊が争う様子が記されています。
伊弉諾尊はもう黄泉平坂につかれたともいう。そこで千引の磐で、その坂路を塞ぎ、伊弉冉尊と向き合って、縁切りの呪言をはっきりといわれた。そのとき、伊弉冉尊がいわれるのに「愛するわが夫よ。あなたがそのようにおっしゃるのならば、私はあなたが治める国の民を一日に千人ずつ絞め殺そう」と。伊弉諾尊が答えて言われる。「愛するわが妻がそのようにいうなら、私は一日に千五百人ずつ生ませよう」と。~「日本書紀(上)全現代語訳 宇治谷孟(講談社学術文庫)」~
つまり、伊弉諾尊が絶縁を告げたあと、伊弉冉尊が「そんなこというなら、伊弉諾尊の治める国の民を千人殺すぞ」と、絶縁に対して異議があるようなこと言っています。
ここに、一書の話を加えると、泉守道者が、「いやいやそう言ってはいますが、黄泉の国に留まってあなたと一緒には行かないと言っていたよ。」と伝えたということになります。
そこで、最後に、菊理媛命が「そうそう、伊弉冉尊は、あなたを恨んではないですよ。だから、早く行ってはどうですか?」みたいなことを耳打ちしたのではないかと思うのです。
その言葉を聞いた伊弉諾尊は、「確かにそうだな。愛する妻と遺恨を残したまま別れるところだった。」と菊理媛命に礼を言って去っていったのではないかと思います。
まさに、伊弉諾尊と伊弉冉尊の争いを締めくくったのが菊理媛命だったのです。
「締めくくり」で「くくりひめ」・・・。最後はダジャレ・・・。