【阿波の神社を行く!】神功皇后に神託を授けたのは阿波の建布都神だ!「阿波国 阿波郡 建布都神社」

阿波の神社を行く!

927年に編纂された延喜式神名帳に「阿波国 阿波郡 建布都神社」と記された神社があります。延喜式神名帳に記された神社は、当時そこに確実に存在し、国から幣帛へいはくを受けていた格式のある神社のことです。

 建布都神(たけふつのかみ)ってどんな神様?

建布都神とは?

建布都神の名は、古事記のみに登場します。伊邪那美命(いざなみのみこと)は、火の神である火之迦具土神(かぐつちのかみ)を産んだ傷がもとで亡くなります。嘆き悲しんだ伊邪那岐命(いざなぎのみこと)は、十拳剣(とつかのつるぎ)で火之迦具土神を切り殺してしまいます。十拳剣の先から滴り落ちる血から最後に生まれた神様を建御雷之男神(たけみかづちのをのかみ)と言います。建御雷之男神の別名を建布都神(たけふつのかみ)あるいはまた豊布都神(とよふつのかみ)と書かれています。

さらに、建御雷之男神を刀剣を鍛えるときの火の働きを称えた神であろうと古事記は推測しています。

建御雷之男神は大国主命の国譲りの場面でも登場します。父の伊都之尾羽張神(いつのをはばりのかみ)に代わって建御雷之男神が大国主命との交渉のため葦原中国へ向かいます。大国主命は、自分の一存では決められないので、子の八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)にたずねてほしいと言います。八重事代主神が承諾すると、大国主命はもう一人の子の建御名方神(たけみなかたのかみ)にもたずねてほしいと言います。建御名方神が抵抗すると建御雷之男神は圧倒的な力で建御名方神を退け諏訪まで追いやってしまいます。

 つまり、建御雷之男神は、国譲りの最大の功労者というわけだ。

延喜式神名帳に記された建布都神社はどこにある?

「式内社の研究」のなかで、志賀剛氏は、阿波国の式内社46社のうち、社名が地名によるものは6社しかなく、残りの40社が神名によるものとなっていることに驚き、それが論社(候補)の多い理由だと述べています。

建布都神社も延喜式神名帳に列せられたほどの神社でありながら、現在どこにあるのかよくわかっていません。候補もたくさんあります。

阿波市市場町にある建布都神社

阿波市市場町香美に建布都神社があります。

「大俣村史」には、大影村にある伊笠神社に祀られていたが、後世に平地での参拝がしやすいように平地権現に遷され、さらに扇状地が開拓されるに至り、香美の建布都神社へと移転したと記されています。

「寛保御改神社帳」に「香々美村 平地権現」とあるのが、この建布都神社で、「市場町史」には、明治3年に延喜式内社であるとし、平地権現から建布都神社へと改称したとあります。

「徳島県神社誌」によると、祭神は、建布都神、経津主神、大山祇神、事代主神となっています。大正8年に近隣の野神社、恵比須神社を合祀したとあるので、平地権現に祀られていたのは建布都神、経津主神と考えられます。

「粟島史」は、次のようなことを伝えています。

武布津(たけふつ)の神が出雲を平定して天照大神に奉告するために事代主命を道連れにして阿波に来た。一行は、讃岐の志度に上陸して日開谷を過ぎて伊笠山付近にきた。その時、忌部族は高天族不意の侵入を咎めて小競り合いがあったが、やがて忌部族天日鷲命は武布津神のために休憩所を今の香美に建て、事代主命を自分の妹の阿波咩の館に迎えた。

 ものすごいことが書かれているなあ。つまり、天日鷲命が建布都神のために建てた休憩所がここというわけか・・・。

ちなみに、市場町伊月には、延喜式内社の事代主神社とされる神社もあります。

建布都神社には、直径18.5mの円墳が存在し、建布都神社古墳と呼ばれています。発掘調査で横穴式石室が確認されているので、築造は6世紀後半と考えられます。

 6世紀後半の築造となると、古墳の後に神社が建てられたか・・・。

伊笠山山頂にある伊笠神社

伊笠神社は、標高704.6mの伊笠山の山頂に鎮座しています。

「徳島県神社誌」によると、創建は承応3年(1655年)、新田氏の一族を祀ると言われていると書かれています。又一説として、地頭職三浦為清が源頼朝より久千田荘を賜り、故郷より氏神を分霊し、衣笠山と名付けたということも伝えている。

さらに「阿波志」の「犬墓山山頂にあり、新田氏の族逃れ来て常に笠を載せて行く、既に死し祠を造りこれを祀る」という記述を引用しています。

しかし、伊笠山は、もっと古くから信仰の対象とされてきたのではないかということも記しています。

祭神は、武甕槌命、経津主命、天御中主命、天一目箇命、誉田別命としています。

野口年長は「阿波郡式内神社考」のなかで、建布都神社について、諸説あっていずれが式内社と決め難いとし、その一つに「犬墓村に伊笠明神と申すあり、祭神二座、建甕槌命、天二登命」と述べています。

 建布都神と経津主命は、日本書紀ではともに葦原中国を平定した神として出てくるので、一緒に祀られることはよくあるが、天二登命とは・・・。

天二登命は「あめのふたのぼりのみこと」と読み、天二上命ととも書きます。天村雲命が天孫瓊々杵命から賜った名前です。

伊笠神社は、見方によっては山頂に気づかれた古墳の上につくられたようにも見えます。

 まさか、神陵だったりして・・・。

土成町郡字建布都にある建布都神社

土成町郡のその名も建布都にある建布都神社です。

祭神は、建布都神と経津主命です。

平成12年に近くの西宮神社と建布都神社を合祀して一社としたようです。

 西宮神社には事代主神が祀られているので、事代主神と建布都神が一緒に祀られているのも面白い。

「式内社の研究」では、この神社を延喜式内社の建布都神社であるとしています。著者の志賀剛氏は、吉野川河畔に建つこの神社は、豊作と水難除けを祈って「淵の神」を祀っていたと考え、「ふちのかみ」が「ふつのかみ」となり、美称の「建」がついて、武神である建布都神と結びついたのではないかと推察しています。

「徳島県神社誌」も、この辺りは、「郡(こおり)」の地名通り、郡衙があったところと推定され、郡衙の守護神として建布都神社はこの地を支配した豪族の崇敬を受け、延喜式内社に列せられたのではないかとしています。

土成町成当にある赤田神社

土成町成当にある赤田神社は「あかんたじんじゃ」と読みます。祭神は、武甕槌命、経津主命で、この神社も延喜式内社の建布都神社ではないかと言われています。

神紋のようなものが彫られていましたが、神紋だとするとかなり変わっています。

赤田神社の少し北側の山に、赤田山古墳とよばれる円墳がありました。

建布都神は阿波の神様だ!

延喜式神名帳に記された神社で、建布都神の名が付く神社は、「阿波国 阿波郡 建布都神社」の一社しかありません。

「日本書紀」に神功皇后が、神主となり神に、仲哀天皇が亡くなる前に神託を授けた神の名を教えてほしいと祈った所、伊勢国の五十鈴の宮にいる神だと答えが返ってきます。さらに、このほかに神がいうるのかと尋ねると「吾は尾田吾田節の淡郡にいる神である。」と答えます。

「淡郡」は「あわのこおり」と読み、これは阿波国阿波郡のことだと考えられます。

「式内社の研究」では、吾田節の「吾田」は「あかた」と読み「赤田」のことで、「節」は「淵」のことであるとしています。つまり、吾田節は「赤田の淵」ということになります。尾田は、赤田の南に尾類(おるい)という地名があり、「尾田→尾類田→尾類」となったのではなかと推測しています。

 赤田はともかく尾類はちょっと苦しいような気が・・・。

「日本書紀」では、神功皇后は、「他にも神はいますか?」と尋ねています。すると、「尾田吾田節の淡郡」にいる神は「天事代虚事代玉籤入彦嚴之事代神がいる。」と答えました。この神は事代主神で、伊月にある延喜式内社で祀られている事代主神のことを言っています。

つまり、建布都神も事代主神の二人が揃って「尾田吾田節の淡郡」に居るというのです。

阿波国阿波郡には、延喜式内社の建布都神も事代主神が揃ってあります。こんな偶然はないと思うのです。

建布都神も事代主神も阿波の神様だったのです。

「日本書紀」では、事代主神のあとに、住吉三神の名がでてきます。住吉三神は、海人族が祀る海の神です。事代主神も海人族が祀る海の神です。

もしかすると、建布都神も「式内社の研究」で述べられている通り、「淵の神」として祀られたのかもしれません。

まとめ

どの神社が延喜式内社の建布都神社にあたるのかはよく分かりませんが、阿波国に一社のみあることからも建布都神は阿波の神様であると言えます。

建布都神が建御雷之男神とすると、建御雷之男神が諏訪に追いやった事代主神の兄弟の建御名方命は、吉野川をはさんで約15kmほど対岸下流の石井町のその名も諏訪に延喜式内社の「阿波国 名方郡 多祁御奈刀弥神社」として祀られています。

ちなみに、赤田神社の反対側に「尾開」と書いて「おばり」と読む地名があります。建御雷之男神の父は伊都之尾羽張神(いつのおはばりのかみ)と言います。

これだけピースがそろえば、国譲りの舞台はまさに「阿波国阿波郡」の辺りだったのではと妄想してしまいます。

また、建布都神とよく一緒に祀られている経津主神ですが、物部一族が奉斎する神様だということが知られています。

この辺り、物部一族の痕跡があちらこちらにあります。

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